宇治拾遺物語~だるまさんは転ばない~


上杉謙信という武将がいます。

戦国武将の中でも人気の高いお人。

ミドルネーム(笑)は「不識庵」で、上杉不識庵謙信。

このミドルネームは「達磨不識(だるまふしき)」という故事から来ているそうです。

「達磨不識」というのは、見返りを求めてする行いは尊くない、ということでしょうか。

そして無我の境地に到達すれば、そういうことも考えなくなるということでしょうか。

そこら辺、正しい理解はできていない気がしますが。

達磨和尚に関してウィキペディアを見てみるとこんな感じでした。

「ダーマ」とも言うって…!

ドラクエの「ダーマの神殿」はもしやここに語源があるのでしょうか。

その達磨和尚の話が『宇治拾遺物語』にも載っています。

話の中心は達磨和尚ではありませんが、かいつまむとこんな話です。


昔、インドの寺に80歳~90歳くらいの老僧が2人いました。

この2人は囲碁を打ってばかりで修行らしいことは一切しません。

ボードゲームに興じている2人の老僧を、他の僧はみな蔑んでいました。

が、その寺を訪ねた達磨和尚だけは「この2人、、、できる…!」と気がつきました。

老僧に聞いてみると「黒は煩悩、白は菩提。白が勝つことを願ううちに悟りを開いたのですじゃ」と。

達磨和尚がこれを皆に伝えると、誰もこの2人の老僧を蔑まなくなったとさ。


こんな話です。

まさに無我の状態で囲碁を打っていたのでしょうか。

雑念をもって修行するよりも、無我の境地で囲碁を打つ方が尊いということでしょう。

先述の「達磨不識」と通じるものがあるように思います。

もう少し一般化を試みると。

傍目にどうしようもない、と思うことが実はとても大きな意味を持つことってありますよね。

だから人がやっていることを簡単に見た目だけで蔑むのは間違いのもとだと言えるでしょう。

また、どんなことでも意味を持たせて真剣に取り組めば大きな力になる、という教訓にもなるでしょうか。

今日は上に話をまとめたので現代語訳抜きで本文を載せるにとどめたいと思います。


【原文】
昔、天竺に一寺あり。住僧もつとも多し。達磨和尚この寺に入りて、僧どもの行ひを窺ひ見給ふに、
八九十ばかりなる老僧の、ただ二人ゐて囲碁を打つ。仏もなく、経も見えず。ただ囲碁を打つ外は他事なし。
達磨くだんの坊を出でて、他の僧に問ふに、
答へて曰く、「この老僧二人、若きより囲碁の外はする事なし。すべて仏法の名をだに聞かず。
よつて寺僧、憎みいやしみて交会する事なし。むなしく僧供を受く。外道のごとく思へり。」と云々。
和尚これを聞きて「定めて様あらん」と思ひて、この老僧が傍らにゐて、囲碁打つ有様を見れば、
一人は立てり、一人は居りとみるに、忽然として失せぬ。
あやしく思ふ程に、立てる僧は帰りゐたりと見る程に、またゐたる僧失せぬ。見ればまた出できぬ。
「さればこそ」と思ひて、「囲碁の外他事なしと承るに、証果の上人にこそおはしけれ。その故を問ひ奉らん」と宣ふに、
老僧答へて曰く「年来この事より外他事なし。
ただし、黒勝つ時は我が煩悩勝ちぬと悲しみ、白勝つ時は菩提勝ちぬと悦ぶ。
打つに従ひて、煩悩の黒を失ひ、菩提の白勝たんことを思ふ。この功徳によりて証果の身となり侍るなり」といふ。
和尚、坊を出でて、他僧に語り給ひければ、年来憎みいやしみつる人々、後悔してみな貴みけりとなん。


【語釈】
◯「僧供」
供養のため、僧に贈る金銭や米のこと。

◯「定めて様あらん」
「様」には「わけ、理由」の意味がある。「きっとわけがあるのだろう」の意味。

◯「証果」
悟りを得ること。

◯「菩提」
煩悩を断って悟りの境地に入ること。

 

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Posted in 古文

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