吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていた事は記憶している。 (『吾輩は猫である』)
幕間に散歩する人たちで帝国劇場の廊下はどこもかしこも押合うような混雑。
丁度表の階段をば下から昇ろうとする一人の芸者、
上から降りてくる一人の紳士に危うくぶつかろうとして顔を見合わせお互いにびっくりした調子。 (『腕くらべ』)
小説には大きく分けて「1人称の小説」と「3人称の小説」があります。
分かりますかね?
小説には「語り手」というものが存在します。
文字通り、そのストーリーを語る人、分かりやすく言えば、ナレーションの部分です。
そのナレーションが1人称の場合と3人称の場合があるわけです。
3人称の物語というのは、物語り世界の全体を見渡し、把握している語り手が存在することになります。
自由にあらゆることを語ることができます。
1人称の小説というのは、語り手・ナレーションが「私」、つまり登場人物がナレーションも兼ねているものです。
語れる範囲はその登場人物の周辺事情のみという制限がつく代わりに、臨場感が出ます。
上の引用で行くとどう分類できるかお分かりでしょうか?
『吾輩は猫である』が1人称の小説 / 『腕くらべ』が3人称の小説、ということになります。
ちなみに『吾輩は猫である』の凄いところは、
語り手をネコに設定して、1人称の小説の弱点?である「語る範囲の狭さ」をカバーしているところだと思っています。
ネコが語り手である場合、人間よりも行動範囲が広く自由がきくので、
3人称の小説と同じような世界観の広がりを持たせつつ、1人称の小説の持つ臨場感を生み出しています。
夏目漱石は『行人』や『こころ』でも1人称のスタイルで書きつつ、
最後は「手紙」という手法を使って話者を転換するという工夫を施しています。
夏目漱石は、内容もさることながら、書き方・見せ方にもこだわった偉人だと思います。
書き方・手法の分析に関しては、
ジェラール・ジュネットが書いた『物語のディスクール』という本を持っていますが、読み終わる気配がありません(笑)
本当はこういう本をしっかり読み込んだ上で小説を読むと格段に違った読み方ができるんでしょうけどね。
最後に。
これまた人称を巧妙に利用した小説を一つ紹介したいと思います。
ファラーズ夫人が死んだのは、九月十六日から十七日にかけての夜 ──── 木曜日であった。
わたしが呼ばれたのは十七日の金曜日の朝八時であった。もう手のくだしようもなかった。
彼女はすでにこときれていた。
わたしが家に帰ったのは、九時をほんの少し過ぎた頃だった。
アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』です。
何がどう面白いのかは言いません。言ったらつまらないですからね。
まあ面白いですから、読んだことがない方はぜひ一度読んでみてください。
では。
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