ら抜き言葉を指摘する人、できる人は意外と多いと思います。
でも「ら抜き言葉」という呼称がおかしいと指摘する人、できる人は意外に少ないように思います。
×「食べれる」
○「食べられる」
×「答えれる」
○「答えられる」
×「見れる」
○「見られる」
だから「ら」が入れば正しい表現だということですよね。
これは、助動詞「れる」と「られる」の使い分けという観点です。
助動詞「れる」は五段活用の未然形の下に来ます。(「接続」といいます)
助動詞「られる」は五段活用以外の未然形の下に来ます。
当然、我々は普段喋るときに「活用と接続」なんてイチイチ意識しません。
「響き」で正しさを判定しています。
上のルールは学問的に捉えるとその通りですが、単純に響きで捉えることもできます。
つまり、現代語の「れる」が五段活用の未然形に接続するということは、言い方を変えると、
「れる」は必ずア段の音に接続する
ということです。
五段活用というのは例えば「読む」です。
未然形「ま&も」連用形「み」終止形「む」連体形「む」仮定形「め」命令形「め」です。
未然形の「ま」に接続して「読まれる」となるわけです。
つまり「ま」というア段の音に接続しています。
ところが、五段活用以外の動詞はア段の音を持っていません。
つまり、現代語の「られる」が五段活用以外の未然形に接続するということは、言い方を変えると、
「られる」は必ずア段以外の音に接続する
ということになります。
例えば「見る」は上一段活用の動詞です。
未然形「み」連用形「み」終止形「みる」連体形「みる」仮定形「みれ」命令形「みろ&みよ」です。
未然形の「み」はア段の音ではないので「れる」ではなく「られる」を使わなければならないのです。
従って「見られる」となります。
では「ら抜き言葉」という言い方は正しいのではないか、と思いますよね。
違います。
確かに“ら”を入れれば正しい表現になるのですが、使っている人は助動詞の用法を間違えているのではありません。
それは「れる」「られる」の意味を考えてみれば分かります。
この助動詞は①受身②尊敬③自発④可能、と4つの意味を持っています。
このうち「見れる」「食べれる」という表現をしてしまうのは、決まって可能の意味の時だけです。
その証拠に「見られちゃった」「食べられちゃった」という受身の意味で使うときに、
「見れちゃった」「食べれちゃった」と言う人はいないですよね。
ということは、やはり助動詞の使い分けはできるのです。
「られる」を使うべきところで「れる」を使ってしまったのではないのです。
では何なのか。
「可能動詞」の誤用 だと考えられます。
「可能動詞」って聞いたことがありますか?
五段活用の動詞を下一段活用に変形させると可能の意味を持たせることが出来ます。
先ほどの五段活用「読む」を下一段活用にすると「読める」になります。
未然形「め」連用形「め」終止形「める」連体形「める」仮定形「めれ」(命令形「めろ&めよ」)
「読める」には「読むことができる」という可能の意味が含まれます。
これを「可能動詞」といいます。
もっと例を挙げれば、
「喋る」→「喋れる」 「書く」→「書ける」 「飛ぶ」→「飛べる」etc.
この法則を五段活用以外にも適用させ、
「ラ行下一段活用」にしたのが、「ら抜き言葉」の正体です。
「見る(上一段)」→「見れる(下一段)」 「来る(カ行変格)」→「来れる(下一段)」など。
従って、決して「れる」「られる」という助動詞の使い分けを誤用したのではないのです。
ちなみに、最初に出した例の「食べれる」「答えれる」は元々下一段なのにラ行下一段に変形させたものです。
「食べる(バ行下一段)」→「食べれる(ラ行下一段)」
「答える(ア行下一段)」→「答えれる(ラ行下一段)」
ただ、この誤用、確か夏目漱石もやっていたような記憶があるのですが…。
ちょっと記憶が定かではありません。
何にせよ個人的にはそんなに目くじらを立てるほどのこっちゃないんじゃないの?というスタンスです。
ただ、知っていて許容するのと、知らないのとでは意味が違います。
追記:「方言説」について「立場の問題とは思いますが」さんからコメントをいただきました。
ぜひぜひ、そちらもあわせて御覧ください。
さて。
便宜上これを「ら抜き言葉」というのに反対というわけではありません。
ただ、あくまでも「便宜上」に過ぎないと思います。
実はこれを読んで初めて知ったという人、ぜひ最初から知っていたかのように振る舞ってください(笑)
誤用、と考えれば誤用。
でも、方言説もあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k990610.htm
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992062/174
↑明治43年の静岡方言辞典に、「見れる」の記録アリ
現代語の場合も、方言の場合も、誤用というよりは「可能であることの明確化」のように、積極的にありだと捉えている国語学者もいます。
おそらくは、標準語策定の際に、方言だと思って切り捨てられただけ。
でも、今でも方言は死んでいないし、むしろ方言は「地方のアイデンティティ」として見直されている。
というか、標準語って、「書き言葉」として策定されただけなので、日常生活で使用している人は誰一人としていませんし。
誰も使っていないものと違うから乱れている、という発想をする人がおかしい。
まぁ、そんなわけで
「個人的にはそんなに目くじらを立てるほどのこっちゃないんじゃないの?というスタンスです。」
というのには同意です。
コメントありがとうございます。
なるほど。勉強になります。
「静岡方言辞典」というのは恥ずかしながら初めて目にしました。丁寧にありがとうございます。
僕としては、古語の「る」「らる」の関係から文法的な見解をしてみたのですが。
古語の「る」は四段・ナ変・ラ変の未然形(ア段)に接続、「らる」がそれ以外(ア段以外)に接続する、
それが現代語では「れる」「られる」になってきているので、そこら辺と可能動詞との関係から本文のような見解になりました。
古語の文法というのも体系化されているのは宮中を中心としたものですから、地方に行けばもちろん違ったわけですが。
とにかく「正しい日本語を一つに決める」というのは無理がありますよね。