~前回のあらすじ~
東国に下ることになった男は、八橋というところで休憩中に、ちょうど近くに咲いていたカキツバタを題にした歌を詠むと、同行者はみな涙を流すのだった。
さて、前回は三河の国までたどり着いた一行ですが、今回駿河の国(現在の静岡県)に入ります。
【現代語訳】
どんどん歩いて行き、駿河の国にたどり着いた。
宇津の山に着いて、自分が分け入ろうとする道は、とても暗く細くて、
ツタやカエデが生い茂り、何となく心細くて、
「思いがけない目を見ることよ」と思っていると、修行者がばったりと一行に出くわした。
「このような道をどうしておいでになるのか」と言うのを見てみると、見知った人であった。
「京にいる、だれそれの御もとに」といって、男は文を書いて託す。
駿河なる・・・〔駿河の国にある宇津の山まで来ましたが、その「宇津」という名から連想される「うつつ(現実)」でも夢でもあなたに会うことはないことですよ…〕
富士山を見ると、五月の下旬というのに雪が白く降り積もっている。
時知らぬ・・・〔時節をわきまえない山が富士の山なのだなあ。今はいつだというわけで、子鹿の斑点のようにまだらに雪が降り積もっているのだろうか。五月も末だというのに〕
その山は、京で例えるならば、比叡山を二十くらい積み重ねたほどの高さで、姿は塩尻のようであった。
【原文】
ゆきゆきて、駿河の国にいたりぬ。
宇津の山にいたりて、わが入らんとする道は、いと暗う細きに、
つた、かへでは茂り、もの心ぼそく、
「すずろなるめを見ること」と思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」と言ふを見れば、見し人なり。
「京に、その人の御もとに」とて、ふみ書きてつく。
駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山をはたちばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。
【語釈】
◯「宇津の山」
宇津ノ谷峠として現在もその名が残っている。
◯「書きてつく」
「つく」は非常に多くの意味を持っているが、ここでは「託す、任せる」の意味。
◯「駿河なる宇津の山べの」
同音の「うつつ」を導くための序詞。
◯「なりは塩尻のやうに」
「なり」は「姿形」の意味。「塩尻」は塩田で砂を円錐形に積み上げたものらしい。
というわけで、今回は駿河の国で和歌を二首詠んだところでとめておきます。
しかしいくら物語とは言え、そんな異国の地で偶然京の知り合いと出会うもんですかね?
絶対にないとは言えませんが、まあいいや。
このお話はあと1回で終わりです。
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