今回を入れて、たぶんあと3回で終了すると思われる本シリーズ。
やっと終わりが見えてきましたが、長かった・・・。
途中から完全にしんどくなってきた割にアクセスが伸びないという、まあよくあるパータンですわ(笑)
ではまず、恒例のあらすじから行きますか。
~前回までのあらすじ~
1)醍醐天皇の御代、左大臣時平と右大臣道真が国政を取り仕切っていたが、道真の方が学問があり帝からの信も厚かった。内心面白くない時平だったが、ちょうど道真に不都合なことが起こり、道真は左遷され、大宰府に流されるのだった。
2)道真には多くの子がいたが、それぞれ別々の地へと流されることになった。あまりにも幼い子は道真に同行することを許されたが、道真は無実の罪を嘆いて和歌を詠み、ついには出家して大宰府へと下っていくのだった。
3)詩や歌を詠みながら大宰府に到着し、いつか都に呼び戻されることを密かに期待し、何かにつけて和歌を口ずさむ道真だった。
4)淀みなく話を続ける世継じいさんに、話を聞く者たちはすっかり引き込まれていた。そこで世継じいさんはますます気をよくして話し続けるのだった。
5)気をよくした世継じいさんは、大宰府で謹慎する道真が詠んだ漢詩を披露するのだった。
6)世継じいさんが道真の詩歌に詳しくなったいきさつを話すと、聴衆はしきりに感心した。
7)大宰府の地で道真は死んでしまった。京では北野天満宮に、筑紫では安楽寺に、道真は神として祀られた。また、道真の死後、内裏が火事で焼失してしまった。内裏を造営していたある日、屋根の裏板に道真の怨霊のしわざと思われる和歌が刻まれていた。
8)道真の死後、道真を左遷に追い込んだ時平も、その一族も次々と死んでしまうのだった。
9)時平の一族が次々に世を去る中、故保明親王を偲んで交わした、親王の女御と乳母子による和歌が紹介される。
さっそく行きますが、今回はちょっと短いと思います。
【現代語訳】
もう一人の御息所は玄上宰相のご息女だったろうか。
その後朝の文の使いを、敦忠中納言がまだ少将だった頃に、しなさった。
保明親王がお亡くなりになった後、この御息所は敦忠中納言と再婚なさったが、
敦忠中納言は、この妻をこの上ない者と思いながら、どうお思いになったのだろうか、
文範の民部卿が播磨の守で、かつ敦忠中納言家の家司としてお仕えしていたのだが、
敦忠中納言は「私は短命な一族の身だ。そう遠くないうちにきっと死ぬだろう。
その後、あなたは、文範と再婚なさるだろう」とおっしゃったところ、
玄上宰相のご息女が「あり得ないことです」とお返事なさったが、
「あの世から見ていよう。必ずやそうなるだろう」などとおっしゃったが、本当にその通りにおなりになったことだよ。
はい、保明親王の奥方の話を前回から引き継いで始まります。
最初に出てくる人物、玄上(はるかみ)宰相は藤原玄上という人です。
藤原玄上の娘は、初め保明親王に嫁ぐのですが、
保明親王が亡くなった後、藤原敦忠と再婚し、さらに敦忠まで早世すると、藤原文範と再々婚したのだそうです。
それから、「後朝の文」は「きぬぎぬのふみ」と読みます。
女性と一夜を過ごした翌朝には、男性から女性に「名残惜しいぜ」という手紙(和歌)を送る習慣でした。
これが「後朝の文」です。
保明親王からの後朝の文を、玄上宰相の娘のもとに届ける使いが敦忠だったのだそうです。
その縁もあって、玄上宰相の娘は敦忠と再婚したのでしょうね。
道真の呪いによって敦忠が亡くなると、玄上宰相の娘は文範と再々婚します。
その文範は敦忠の「家司」として仕えていた、と出てきます。
「家司」は「けいし」と読み、主家の事務を司る役職です。
今度はその縁で結ばれたのでしょう。
ちなみに、この文範は長寿で、88歳まで生きています。
ということで、今回はずいぶんと短いのですが、ここで切らないと、めちゃくちゃ長くなってしまうので。
では最後に原文。
【原文】
いま一人の御息所は玄上の宰相の女にや。
その後朝の使、敦忠中納言、少将にてし給ひける。
宮うせ給ひて後、この中納言にはあひ給へるを、
限りなく思ひながら、いかが見給ひけん、
文範の民部卿の、播磨の守にて、殿の家司にて候はるるを、
「我は命短き族なり。必ず死なんず。
その後、きみは文範にぞあひ給はん」とのたまひけるを、
「あるまじき事」といらへ給ひければ、
「あまがけりても見む。よにたがへ給はじ」などのたまひけるが、まことにさていまするぞかし。
[ 大鏡~菅原道真~(9)][ 大鏡~菅原道真~(11)]