大鏡~菅原道真~(11)


1回このシリーズを書くと次に音楽系の記事が挟まって、の繰り返しという異例の展開になっています。

これは、食べている途中で満腹になったとき、一口食べるごとに水を飲むのと同じ現象です(笑)

~前回までのあらすじ~

1)醍醐天皇の御代、左大臣時平と右大臣道真が国政を取り仕切っていたが、道真の方が学問があり帝からの信も厚かった。内心面白くない時平だったが、ちょうど道真に不都合なことが起こり、道真は左遷され、大宰府に流されるのだった。

2)道真には多くの子がいたが、それぞれ別々の地へと流されることになった。あまりにも幼い子は道真に同行することを許されたが、道真は無実の罪を嘆いて和歌を詠み、ついには出家して大宰府へと下っていくのだった。

3)詩や歌を詠みながら大宰府に到着し、いつか都に呼び戻されることを密かに期待し、何かにつけて和歌を口ずさむ道真だった。

4)淀みなく話を続ける世継じいさんに、話を聞く者たちはすっかり引き込まれていた。そこで世継じいさんはますます気をよくして話し続けるのだった。

5)気をよくした世継じいさんは、大宰府で謹慎する道真が詠んだ漢詩を披露するのだった。

6)世継じいさんが道真の詩歌に詳しくなったいきさつを話すと、聴衆はしきりに感心した。

7)大宰府の地で道真は死んでしまった。京では北野天満宮に、筑紫では安楽寺に、道真は神として祀られた。また、道真の死後、内裏が火事で焼失してしまった。内裏を造営していたある日、屋根の裏板に道真の怨霊のしわざと思われる和歌が刻まれていた。

8)道真の死後、道真を左遷に追い込んだ時平も、その一族も次々と死んでしまうのだった。

9)時平の一族が次々に世を去る中、故保明親王を偲んで交わした、親王の女御と乳母子による和歌が紹介される。

10)故保明親王のもう一人の妻だった、玄上宰相の娘は、親王の死後、時平の子である敦忠と再婚していた。しかし敦忠も早世したので、敦忠の家司を勤めていた藤原文範と再々婚したのだった。


【現代語訳】

時平公のご子息の中では、大納言源昇卿のご息女がお生みになった顕忠公だけが、右大臣にまでおなりになった。

その右大臣の位に六年お就きになったが、少しお考えになるところがあったのだろうか、

外をお歩きになるのにも、邸の中でも、大臣の慣例となっているような振る舞いをなさらなかった。

外出なさる際には、普通のことでは、御先払いを二人組でつけるようなことはなさらなかった。

ごくまれに御先払いをおつけになる場合にも、少ない人数で御車の後ろにお控えしていた。

御車の供の者も四人を組み合わせてお連れになることはなかった。

御先払いの声も時々で、しかも小さい声で、し申し上げた。

また、たらいで御手を洗うこともなかった。

寝殿の日隠しの間に棚を作って、小さい桶に小さいひしゃくを添えておられたので、

召使いが毎朝湯を持って参って入れたが、人にかけさせるようなこともなさらず、

ご自身がそこまでお出向きになり、ご自身でお洗いになった。

お食事は、きちんと蓋つきのお椀などに盛ってお出しすることもせず、倹約なさったので、

しかるべき時の、お座りになる席と署名に判を押す位置とによって、なるほどこの方は大臣だと見受けられなさった。


藤原時平の子の中で唯一、右大臣にまで昇進した、顕忠という人についてです。

非常に謙虚な人物だったようです。

謙虚エピソードのみで、特に付け足すようなことはほとんどないのですが。

この人は時平の子孫の中では唯一長寿だった人で、享年68歳だそうです。

亡くなった年月をまとめてみます。

903年   菅原道真  没
907年   藤原時平  没
923年   保明親王  没
925年   慶頼王    没
931年ごろ 藤原褒子  没
936年   藤原保忠  没
943年   藤原敦忠  没
945年   藤原仁善子 没
945年   藤原寛子  没
949年   藤原忠平  没
960年   藤原貴子  没
965年   藤原顕忠  没

時平とその子孫を赤字にしてみました。

顕忠は、確かに時平の子息の中ではずば抜けて長寿ですね。

では今回はここまで。

最後に原文。


【原文】
ただこの君達の御中には、大納言源昇の卿の御女の腹の、顕忠のおとどのみぞ、右大臣までなり給ふ。
その位にて六年おはせしかど、すこし思すところやありけん、
出でてありき給ふにも、家内にも、大臣の作法をふるまひ給はず。
御ありきの折は、おぼろけにて、御前つがひ給はず。
まれまれも、数少なくて御車のしりにぞ候ひし。
車副四人つがはせ給はざりき。
御さきも、時々ほのかにぞ参りし。
たらひして御手すますことなかりき。
寝殿の日隠しの間に棚をして、小桶に小ひさごして置かれたれば、
仕丁つとめてごとに湯を持て参りて入れければ、人してもかけさせ給はず、
我出で給ひて御手づからぞすましける。
御召物は、うるはしく御器などにも参り据ゑで、倹約し給ひしに、
さるべきことの折の御座と、御判所とにぞ、大臣とは見え給ひし。


【語釈】
◯「君達」読み:きんだち
「公達」とも書く。貴族の子息、または貴族の子女のこと。

◯「源昇」読み:みなもとののぼる

◯「顕忠」読み:あきただ
藤原顕忠。時平の次男。

◯「車副」読み:くるまぞい
牛車の左右につきそう従者。

◯「御さき」読み:みさき
先払いのこと。貴人が道を行く時に、先頭に立って道にいる人を払いのけること。

◯「日隠しの間」
「階(はし)隠しの間」のこと。寝殿の階段を上って廂に入るところにある。

◯「仕丁」読み:じちょう/しちょう
貴族の家や寺社や幕府などで雑事に使われた者。

◯「御器」読み:ごき
蓋付きの食器のこと。

 

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