いよいよ最終回です。
最後のあらすじまとめ。
1)醍醐天皇の御代、左大臣時平と右大臣道真が国政を取り仕切っていたが、道真の方が学問があり帝からの信も厚かった。内心面白くない時平だったが、ちょうど道真に不都合なことが起こり、道真は左遷され、大宰府に流されるのだった。
2)道真には多くの子がいたが、それぞれ別々の地へと流されることになった。あまりにも幼い子は道真に同行することを許されたが、道真は無実の罪を嘆いて和歌を詠み、ついには出家して大宰府へと下っていくのだった。
3)詩や歌を詠みながら大宰府に到着し、いつか都に呼び戻されることを密かに期待し、何かにつけて和歌を口ずさむ道真だった。
4)淀みなく話を続ける世継じいさんに、話を聞く者たちはすっかり引き込まれていた。そこで世継じいさんはますます気をよくして話し続けるのだった。
5)気をよくした世継じいさんは、大宰府で謹慎する道真が詠んだ漢詩を披露するのだった。
6)世継じいさんが道真の詩歌に詳しくなったいきさつを話すと、聴衆はしきりに感心した。
7)大宰府の地で道真は死んでしまった。京では北野天満宮に、筑紫では安楽寺に、道真は神として祀られた。また、道真の死後、内裏が火事で焼失してしまった。内裏を造営していたある日、屋根の裏板に道真の怨霊のしわざと思われる和歌が刻まれていた。
8)道真の死後、道真を左遷に追い込んだ時平も、その一族も次々と死んでしまうのだった。
9)時平の一族が次々に世を去る中、故保明親王を偲んで交わした、親王の女御と乳母子による和歌が紹介される。
10)故保明親王のもう一人の妻だった、玄上宰相の娘は、親王の死後、時平の子である敦忠と再婚していた。しかし敦忠も早世したので、敦忠の家司を勤めていた藤原文範と再々婚したのだった。
11)時平の子で唯一、次男の顕忠だけが右大臣にまで出世した。この人は、何かお考えがあったようで、非常に質素な生活を心がけていた。
さて、最終回は顕忠の話を受け継いだところから始まります。
ではいきます。
【現代語訳】
このように振る舞いなさったためだろうか、顕忠公だけが、時平の一族の中で、六十過ぎまで生きながらえなさった。
一町の四分の一という狭い邸で、大臣就任の際の饗宴をなさった人である。富小路の大臣と申し上げた。
この方以外の時平公のご子息、ご息女はみな三十数歳の寿命で、四十歳をお迎えになることはなかった。
そのわけは、他でもなく、この北野に祀られた道真公の御霊のお嘆きのせいであるに違いない。
顕忠右大臣のご子息、重輔の右衛門佐としていらっしゃった方のご子息であるが、
この方々は、今の三井寺の別当の心譽僧都、山階寺の権別当の扶公僧都である。
こうしたご子息が顕忠公にはいらっしゃるようだ。
敦忠中納言のご子息は多くいらっしゃった中で、兵衛佐なにがし君とか申した、その方は出家して極楽往生なさった。
その仏となった方の子であるよ、石倉大雲寺別当の文慶僧都は。
敦忠公のご息女は、枇杷大納言の正妻でいらっしゃったよ。
無実の罪で道真公を失脚させるという驚くべき悪事を天皇に進言なさった罪によって、
時平公の御子孫はいらっしゃらないのである。
とはいえ、時平公は実務を処理する才覚などは大変すぐれた手腕がおありになったのだが。
まず「一町の四分の一」とありますが。
「一町=約10,000㎡」とのことなので、その1/4でどこが狭いんじゃ (╬ಠิ益ಠิ)
って思いますが、当時の公卿としては狭いのですよ。
そしてまた人物が増えましたね、トホホ。
まず、顕忠の子として出てきたのが、重輔、さらにその子が心譽(しんよ)僧都と扶公(ふこう)僧都。
そして敦忠の子として「兵衛佐なにがし君」と出てきますが、これは藤原佐理(すけまさ)のことだそうです。
(「三跡」の一人に数えられた書道の達人・藤原佐理とは別人です。)
佐理は極楽往生した(つまり成仏した)ので、ここでは「仏」とされ、
その仏の子、すなわち佐理の子が文慶(もんきょう)僧都だと語られています。
敦忠の娘として紹介された人物は、名が分かっていませんが、「枇杷大納言」の正妻だそうです。
「枇杷大納言」と呼ばれた人は他にもいるようですが、ここでは醍醐天皇の孫である源延光のことです。
源延光の父は式明(のりあきら/よしあきら)親王という人です。
さて、「道真の子孫はいらっしゃらない」と書いてありますが、いるじゃないか、と思った人もいるでしょうか。
でも、僧侶になったということはもう俗世の人ではないわけです。女性とも関係は持てないし。
実際には時平の子孫も細々と続いたのかも知れませんが、少なくとも表舞台から消えたのは間違いないようです。
というわけで、大勢の人物がシリーズで登場したので家系図にしてまとめてみました! 力作ですw
(クリックすると拡大します)
かつ、前回までの短命だったという話で登場した人物の没年を、参考まで再掲しておきます。
903年 菅原道真 没
907年 藤原時平 没
923年 保明親王 没
925年 慶頼王 没
931年ごろ 藤原褒子 没
936年 藤原保忠 没
943年 藤原敦忠 没
945年 藤原仁善子 没
945年 藤原寛子 没
949年 藤原忠平 没
960年 藤原貴子 没
965年 藤原顕忠 没
というわけで、今回のシリーズはこれでおしまいとなります。
なお、この話は本来藤原時平の項目なので、この後、時平の話は続きますが、ここでは扱いません。
読み続けていただいた方、長い間ありがとうございました。<(__)>
では、最後に原文です。
【原文】
かくもてなし給ひしけにや、このおとどのみぞ、御族の中に、六十余までおはせし。
四分一の家にて大饗し給へる人なり。富小路の大臣と申す。
これよりほかの君達、卅余、四十にすぎ給はず。
その故は、他のことにあらず、この北野の御嘆きになんあるべき。
顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とておはせしが御子なり、
今の三井寺の別当心譽僧都、山階寺の別当扶公僧都なり。
この君達こそはものし給ふめれ。
敦忠中納言の御子あまたおはしけるなかに、兵衛佐なにがし君とかやましし、その君出家して往生し給ひにき。
その仏の御子なり、石倉の文慶僧都は。
敦忠の御女子は、枇杷大納言の北の方にておはしきかし。
あさましき悪事を申しおこなひ給へりし罪により、このおとどの御末はおはせぬなり。
さるは、やまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを。
[ 大鏡~菅原道真~(11)]