大鏡~菅原道真~(9)


長いよー、このシリーズ・・・

しかも大して面白くない。(笑)

ちょっと心が折れつつある今日この頃ですが、あとちょっとなので頑張ります。

~前回までのあらすじ~
1)醍醐天皇の御代、左大臣時平と右大臣道真が国政を取り仕切っていたが、道真の方が学問があり帝からの信も厚かった。内心面白くない時平だったが、ちょうど道真に不都合なことが起こり、道真は左遷され、大宰府に流されるのだった。

2)道真には多くの子がいたが、それぞれ別々の地へと流されることになった。あまりにも幼い子は道真に同行することを許されたが、道真は無実の罪を嘆いて和歌を詠み、ついには出家して大宰府へと下っていくのだった。

3)詩や歌を詠みながら大宰府に到着し、いつか都に呼び戻されることを密かに期待し、何かにつけて和歌を口ずさむ道真だった。

4)淀みなく話を続ける世継じいさんに、話を聞く者たちはすっかり引き込まれていた。そこで世継じいさんはますます気をよくして話し続けるのだった。

5)気をよくした世継じいさんは、大宰府で謹慎する道真が詠んだ漢詩を披露するのだった。

6)世継じいさんが道真の詩歌に詳しくなったいきさつを話すと、聴衆はしきりに感心した。

7)大宰府の地で道真は死んでしまった。京では北野天満宮に、筑紫では安楽寺に、道真は神として祀られた。また、道真の死後、内裏が火事で焼失してしまった。内裏を造営していたある日、屋根の裏板に道真の怨霊のしわざと思われる和歌が刻まれていた。

8)道真の死後、道真を左遷に追い込んだ時平も、その一族も次々と死んでしまうのだった。

というわけで。

道真の祟りが今日も行く、という感じでいきたいと思います。


【現代語訳】

保忠卿の御弟にあたる敦忠の中納言もお亡くなりになった。

この方は和歌の名人で、管弦の道にも優れていらっしゃった。

お亡くなりになった後、宮中で管弦の御遊びがある時に、博雅の三位が、支障があって参上しない時などは、

「貴殿が来ないと今日の管弦の御遊びが中止になってしまう」と何度もお呼びがかかり、参上するのを見て、

老人たちは「もはや世の末、なんと情けないことじゃ。

敦忠中納言がご存命の折には、このような管弦の宴において、博雅の三位なぞを、

帝を初めとし申し上げて、天下の宝と思うことになるとは思いもしなかったことですじゃ」とおっしゃった。

先の皇太子、故保明親王の妃として入内していたのは、時平公のご息女も合わせて三、四人である。

時平公のご息女、藤原仁善子は早くにお亡くなりになった。

中将の御息所と申し上げた方で、後には重明の式部卿親王の正妻となり、また、斎宮女御の御母でもある、

その方もまたお亡くなりになった。とても優美な方でいらっしゃった。

故保明親王を恋い慕い、悲しみ申し上げなさって、親王の乳母であった大輔が夢に見申し上げたと聞いて、

中将の御息所が詠み送りなさった歌、

ときのまも・・・〔ほんのつかの間とはいえ心をなぐさめたあなた様はそれでよいでしょうが、夢にさえ見ることができない私はただただ悲しいことです〕

大輔の返歌は、

こひしさの・・・〔恋しく思う気持ちが慰められるはずもないことでした。春宮亡きあと、正気も失せて夢心地で過ごしているなかで、さらにまた夢でお会いしたのですから〕


はい、今回はここまでです。

まーた人間増えたよ・・・

敦忠中納言は、本文にもある通り、 前回も出てきた藤原保忠の弟君です(※異母弟)。

敦忠が亡くなったのは943年。

博雅の三位は、源博雅といって、醍醐天皇の孫です。

この人は早死にした人として並べられているわけではありません。

が、母親は藤原時平の娘だそうです。

保明親王。この方は、前回出てきた慶頼王の父親です。

醍醐朝での最初の皇太子は、保明親王でした。

が、保明親王が早世してしまったので、その子である慶頼王が皇太子となったのです。

前回も書いた通り、その慶頼王もすぐ亡くなってしまうのですが・・・。

保明親王が亡くなったのは923年です。

「保明親王に嫁いでいる時平の娘」というのが藤原仁善子(にぜんし)で、945年に亡くなっています。

仁善子は慶頼王の母親です。

さて、その後の「中将の御息所」についてですが、調べたんですけどよく分かりません・・・

御息所というのは天皇の妃(正妻以外)または、皇太子の妃のことを言います。

文脈上、ここでは皇太子・保明親王の妃のことを指していると思われます。

すると、藤原貴子のことではないかと思われます。

続けて「後には(保明親王の死後には)重明親王の妃となった」と書かれています。

しかし、どうも藤原貴子は重明親王の妃にはなっていないようなんです。

重明親王の妃となっているのは、藤原貴子の妹にあたる藤原寛子です。

そして「斎宮女御の御母でもある」とありますが、

斎宮とは天皇家の血を引く女性(内親王)で、伊勢神宮に奉仕した方のことを言います。

「斎宮女御」というのは徽子女王という方で、母親は藤原寛子です。

ここの記述は、藤原貴子と藤原寛子が混じっているのではないでしょうか。

藤原貴子と藤原寛子は姉妹だと書きましたが、ともに藤原忠平の娘で、忠平は時平の弟です。

あー、ややこしい。

ただでさえ世継はじじいですからね、混乱するのも無理ないです。(笑)

最後に、保明親王の乳母として紹介されている大輔(たいふ)です。

これも、色々見てみると、乳母ではなく「乳母子(めのとご)」みたいなんですよね。

ま、いっか!(笑)

ちなみに、この大輔の歌。

こひしさの慰むべくもあらざりき 夢のうちにも夢とみしかば

が全体像です。

下の句は「夢の中でも、夢だと思って見ていたのですから」くらいに訳したかったんですけど。

上記の解釈の方が一般的なようだったので、それに従っておきました。

さて、道真公の祟りで亡くなった方が増えたので、また整理しましょう。

903年   菅原道真  没
907年   藤原時平  没
923年   保明親王  没
925年   慶頼王    没
931年ごろ 藤原褒子  没
936年   藤原保忠  没
943年   藤原敦忠  没
945年   藤原仁善子 没
945年   藤原寛子  没
949年   藤原忠平  没
960年   藤原貴子  没

藤原忠平は本文には登場しませんが、参考までに。

多くは前回のものの後ろに付け足したのですが、保明親王だけは前回出てきた慶頼王の前に亡くなっています。

こうして見ると、藤原貴子が亡くなった年はちょっと離れていますね。

やはり、父・忠平よりも姉・貴子よりも先に亡くなった藤原寛子のことを、ここでは言っているように思えます。

では最後に原文を。


【原文】
その御弟の敦忠の中納言もうせ給ひにき。
和歌の上手、管絃の道にもすぐれ給へりき。
世に隠れ給ひてのち、御あそびあるをり、博雅三位の、さはる事ありて参らざるときは、
「今日の御あそびとどまりぬ」とたびたび召されて参るを見て、
古き人々は、「世の末こそあはれなれ。
敦忠中納言のいますかりし折は、この三位、
おほやけを初め奉りて、よの大事に思ひ侍るべきものとこそ思はざりしか」とぞのたまひける。
先坊に御息所参り給ふ事、本院の御女ぐして三四人なり。
本院のは、失せ給ひにき。
中将の御息所と聞こえし、のちは重明の式部卿親王の北の方にて、斎宮女御の御母にて、
そも失せ給ひにき。いと優しくおはせし。
先坊を恋ひ悲しび奉り給ひ、大輔なむ夢に見奉りたると聞きて、
詠みて送り給へる、

ときのまも慰めつらん君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき

御返事、大輔、

こひしさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば

 

[ 大鏡~菅原道真~(8)][ 大鏡~菅原道真~(10)

 

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