見栄を張って恥をかくということはありがちかもしれません。
といって今自分を振り返ってみましたが、思い当たらない(笑)
忘れてしまっているだけなのかもしれませんが、恥をかきたくないから見栄も張らない、という性格なのかもしれません。
ひょっとして、ちょっとくらい見栄を張った方がかっこいいのかなあ。
知ったかぶりをしてべらべら喋って恥をかくことはしませんが、
知ったふりをして静かに聞いて話を合わせ、あとでこっそり調べることはたまにあります(笑)
今回のお話はちょっと風変わりな恥のかき方をする物語。
【現代語訳】
百喩経にこのようなことが書かれてある。
「昔、愚かな俗人がいて、ある人の婿となって相手の家に行った。
さまざまにもてなされたけれど、何だか利口ぶり、上品ぶってほとんど何も食べずにいたら腹が減って、
妻がちょっと部屋を出たすきに、米を口いっぱいに頬張って食べようとしたところに、
妻が戻ってきてしまったので、男は恥ずかしさに顔を赤らめていた。
妻が『頬が腫れ上がってらっしゃるようにお見えになるけど、どうされたの?』と尋ねるけれど返事もせず、
ますます顔が赤くなったので、重度の腫れ物でものも言えないのかと驚き、
父母にもこれこれと知らせると、父母がやって来て『どれ、どれ』と言う。
ますます婿殿の顔色が赤くなるのを見て、近隣の者が集まって、
『婿殿の腫れ物の症状が重くておいでじゃ、驚いたことよ』といって見舞いに来る。
そうこうするうちに、『医者を呼べ』ということで、藪医者が近くにいたのを呼んで診察させると、
『ムハッ!こりゃ、たいっっっっへんな重症ですぞ!すぐに治療して進ぜよう』と言って、
大きな火針を赤く焼いて、頬をぶっ刺したところ、米がぼろぼろとこぼれてきた。
頬は破られ、恥をさらしたことだった」と。
いやあ、愉快愉快。
『沙石集』は良いですなあ。
これは藪医者も酷いように思いますが、恥を隠した婿殿の罪が問われています。
「罪を隠すと罪はいよいよ増していく」という教えのたとえ話なんです。
そういう仏教的なことはおいといて、ただ面白いと思ってもらえたらいいかな、と。
それに、仏教的なことは抜きにしても、戒めの要素は感じますしね。
ちなみに、「百喩経」とは、
中国に伝わる,百編(実は98編)の比喩譚つまり寓話を集録した古代インドの仏典。正しくは《百句譬喩経》。原典は伝わらず,中国で5世紀末に南斉の求那毘地(くなびち)によって漢訳されたのが,《大蔵経》に収められている。4巻または2巻。〈愚人が塩を食べる喩〉をはじめとする各編は,まず寓話を述べ,次にその寓話が示す仏教訓話で締めくくっている。本経は,魯迅が南京の金陵刻経処に寄付して出版させたことでも知られる。
だそうです。(「kotobank」より)
【原文】
百喩経にいはく、
「昔、愚かなる俗あつて、人の婿になりて行きぬ。
さまざまにもてなされけれども、なまこざかしくよしばみて、いと物も食はで飢ゑて覚えけるままに、
妻があからさまに出でたる隙に、米をひと頬うちくくみて食はむとする所に、
妻帰りたりければ、恥かしさに面うち赤めてゐたり。
『頬の腫れ給ふと見え給ふをばいかにや』と問へば音もせず、
いよいよ顔赤みければ、腫れ物の大事にて、ものも言はぬにやと驚き、
父母にかくと言へば、父母来たりて、『いかにいかに』と言ふ。
いよいよ色赤くなるを見て、隣りのものの集まりて、
『婿殿の腫れ物の大事におはすなる、あさまし』とて訪ふ。
さるほどに、『医師呼べ』とて、藪医師の近々にありけるを呼びて見すれば、
『ゆゆしき御大事のものなり。とくとく療治し参らせん』とて、
大きなる火針を赤く焼きて、頬を通したれば、米ほろほろとこぼれてけり。
頬は破られ恥がましかりけり」と。