【原文】
いやしげなるもの。
居たるあたりに調度のおほき。硯に筆のおほき。持仏堂に仏のおほき。
前栽に石、草木のおほき。家の内に子孫のおほき。人にあひてことばのおほき。
願文に作善のおほく書きのせたる。
おほくて見ぐるしからぬは、文車の文、塵塚の塵。
【現代語訳】
下品な感じのもの。
座っている周りに道具類が多いの。硯に対して筆が多いの。持仏堂に仏像が多いの。
庭先に石や草木が多いの。家の中に子や孫が多いの。人に会って言葉が多いの。
神仏への祈願状に、自分の行った善行が多く書き記してあるの。
多くて見苦しくないのは、文車の書物とゴミ捨て場のゴミ。
【語釈】
◯「持仏堂」読み:じぶつどう
仏像や位牌を安置する建物、または部屋のこと。
◯「願文」読み:がんもん
神仏への祈願の内容を記した書状。仏事の前に読み上げる。
◯「作善」読み:さぜん
仏像を作る、経を読む、写経する、など仏教的な意味で良い行いを積むこと。
◯「文車」読み:ふぐるま
書物を載せて運ぶ車。より詳しい解説はこちら。
これは『徒然草』の72段です。
『枕草子』を模倣して書いた章段ですね。
仏道=質素、というイメージがあるので、やたらと物が多いのや大げさなのを嫌うのは理解できます。
家の中に子や孫がたくさんいるのも下品だとか。
兼好法師は別の章段(6段)で「子どもなんて持つものではない」と書いていたり、
また別の章段(142段)「子どもがいてこそ親の愛を知ることができる」などと書いていたり、
子どもに関する兼好の考えはその時その時で違うようです。
ただ、ここではギャーギャーうるさいのが嫌だということなのかな、と思っていますがどうなんでしょうね。
ゴミ捨て場のゴミが多いのはいいらしい(笑)
まあ多くて当たり前だからでしょうね。
あるいは、無駄な物は捨てる、質素が一番、というのと関係あるのでしょうか。