嫌われる勇気を持ちなさい―
秋元康が高橋みなみ(AKB48)に言った言葉だそうです。
いやあ、確かにそうです。分かります。
嫌われたくない、という気持ちが強すぎると言いたいことが言えない。
言いたいことを言わなければストレスはたまるし、八方美人な自分に自己嫌悪だし、
結果的に嫌われないとしても、別に好かれるわけでもないし。
例え嫌われようとも、言わなきゃいけないことは言わなければなりません。
特に、人の上に立つ人間は嫌われることを恐れていては何もできません。
全員が完全に納得する方針なんて基本的にはないのですから、
上に立つ人はどんな決断を下そうと、必ず誰かに文句を言われるものです。
ただ一方で、何かを言うことで、何かを決断することで、
誰かに嫌な思いをさせているかもしれないという想像力を働かせない人は上に立つ資格がないと思います。
最初から嫌われることをまったく恐れていないような人は上に立ってはいけない人で、
そういう人に権力を持たせると独裁者になるはずです。
少し前置きが長くなりましたが、久しぶりに『源氏物語』を離れ、『枕草子』の一節です。
【現代語訳】
やっぱり、この世で嫌なことといったら、人に嫌われることよね。
気の狂った人でもない限り、嫌われたいとは思わないはずよ。
だけど、宮仕えの中でも、親兄弟の中でも自然と愛されたり愛されなかったりがあるのはやりきれないわ。
立派な人のことはもちろん、低い身分の人でも、
親などがかわいがる子は何かと注目されて、大事にしたいという気にさせられるものね。
いかにも惹きつけられる子の場合は当然で、そりゃもう愛さないわけがないと思うわ。
でも、平凡な子を愛しいと思っているのは、親なればこそだわ、と思うとしみじみとした心地がするの。
親やご主人様、また、すべての交際する人との関係でも、愛されることほど素晴らしいことはないでしょう。
人間としての実に素直な感情が記されているように思います。
清少納言が実際に目にしたり人づてに聞いた噂などから書いているのでしょうね。
実際に中宮定子のサロンでも定子に好かれたり嫌われたりということがあったのかは分かりません。
男性の貴族社会でのできごとももちろん踏まえているでしょう。
清少納言は定子から愛されていたようなので、筆に余裕があるように感じられます。
世の中には可哀相な人もいるものだわ、っていう。笑
【原文】
世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけれ。
誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれんとは思はん。
されど、自然に宮仕え所にも、親同胞の中にても、思はるる思はれぬがあるぞいとわびしきや。
よき人の御ことはさらなり、下衆などのほども、
親などのかなしうする子は目立てられ耳立てられていたはしうこそおぼゆれ。
見るかひあるはことわり、いかが思はざらんとおぼゆ。
ことなることなきは、またこれをかなしと思ふらんは親なればぞかし、とあはれなり。
親にも、君にも、すべてうち語らふ人にも、思はれんばかりめでたきことはあらじ。