自分を呼んだのはこういうわけだったのだな、とうっすら分かってくると、意外なことだとは思いましたが、
子ども心に遠慮して深く穿鑿はせずに、光る君のお手紙を姉のもとに持ってきたので、
女君は驚きあきれて涙がこぼれるのでした。
幼い弟の心の中を想像するときまりが悪くて、顔を隠すようにお手紙を広げました。
色々と言葉数多く書いてあって、
「見し夢をあふ夜ありやと嘆くまに目さへあはでぞ頃も経にける
〔あなたとの夢のような一夜の後、またあなたと結ばれる夜が訪れるのではないかと嘆くうちに、まぶたを閉じることもできないまま時が過ぎていくことですよ〕
あれ以来、夜も眠れなくて」
あまりに素晴らしくて目が離せないほどの書きぶりに、女君はかえって涙で目もふさがり、
受け入れたくないほど残念な自分の運命を思い続けて横におなりになりました。
次の日、光る君が弟の小君をお呼びになったので、小君は参上するにあたって姉に手紙のお返事を求めました。
「このようなお手紙を受け取るべき人はおりません、と光る君にお伝えしなさい」
とおっしゃると、小君はにこにこして、
「お姉様宛てだと光る君ははっきりおっしゃったのに。そんな風に申し上げることはできません」
と言うので、女君はいたたまれない気持ちがして、
「あの方は私とのことをすっかり弟にお話しになってしまったのだわ」と思うとこの上なくつらい気持ちになりました。
「こら、ませたことを言うものではありません。いいわ、それならもう光る君の所に伺ってはいけません」
と女君がすねてそのように言うと、
小君は「お呼びになっているのだから行きますよ」といって光る君のお邸に参上しました。
紀伊の守も密かにこの若く美しい継母のをもったいないと思い、何かと気を引きたかったので、
小君のことをかわいがってあちこちに連れ回しておりました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
女君(空蝉)の弟が本文中で初めて小君と呼ばれました。
小君というのは固有名詞ではなく、ベネッセ古語辞典によると、
平安時代、貴族の子弟の年少者に対する愛称。
と説明されています。
そして、空蝉ちゃんに対して唐突に尊敬語が使われました。
原文は、
・心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥し給へり。
・「かかる御文、見るべき人もなしと聞こえよ」とのたまへば、
という感じで使われております。
謎です。
この後も継続的に安定して使われるなら分かるのですが、そうでもないのですよね。
とりあえず謎ってことで今回はここまで。笑
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