それから月日も経ちまして、とうとう若宮が内裏に参上なさいました。
以前よりもいっそう、この世のものとは思えないほど美しく成長なさっていたので、
かえって、帝はとても不吉な予感をお感じになったりもするのでした。
翌年の春、皇太子を決定なさる時にも、第一皇子ではなくこの若宮を、と帝はお思いになったのですが、
さすがに後ろ盾となるべき人もおらず、また世の中も受け入れるはずのないことだったので、
かえって若宮のために危ういことだとお気持ちを抑え、顔色にもお出しにならずにいましたので、
「上様はあれほどに若宮のことをお思いになっていたけれど、さすがにものには限度があったことだ」
と世の人も噂をし、また弘徽殿の女御様も安堵なさっているのでした。
一方で祖母北の方は、気の晴らしようもなく落ちこみなさって、
「せめて娘の所に行きたい」と願いなさった結果でしょうか、とうとうお亡くなりになってしまったので、
帝はまたこのことをこの上なく悲しんでいらっしゃいました。
若宮は六歳におなりになる年でしたので、母君の時とは違って物事がお分かりになり、
恋い慕ってお泣きになりました。
生前、祖母君は長い間身近に可愛がり申し上げなさってきた若宮をお残しして先立つ悲しみを
何度も繰り返しおっしゃっていました。
今や、その若宮はずっと内裏でお暮らしなさいます。
七歳におなりになるので、帝は読書始めの儀式などをさせなさったところ、
世にまたとなく聡明利発でいらっしゃるものですから、何となく恐ろしさまでお感じになる帝でございました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
若宮がようやく内裏(皇居)にやってきました。
若宮は皇太子にはなりませんでしたが、これはどう考えても当然でしょう。
しかし、祖母君(桐壺の更衣の母君)は期待を持っていたようで落胆し、遂には亡くなってしまいました。
以前、「桐壺の更衣は中宮定子の運命と似ている」と書きました。
定子の子・敦康親王の運命もまた幼き日の光源氏、若宮に似ています。
ここに定子近辺の略図を載せてみます。
光源氏のモデルとなった人物の説は多く存在するようです。
決定的な一人というのがあるわけではなく、多層的に色々な人物と重なっているはずですが、
そのうちの一人がこの敦康親王です。
祖父道隆が他界して後ろ盾がなく、母である定子も皇子が2歳の時に他界しています。
その後、彰子のもとで養育され、しかも彰子に可愛がられて育ったそうです。
しかし結局、皇太子の座にはつけず即位できないまま終わってしまいます。
一条天皇は皇太子の座にこの敦康親王をつけたかったが、道長に阻まれたという説があります。
光源氏と決定的に違うのは、敦康親王は第一皇子だったのに皇太子の座につけなかったという点です。
これは異例のことで、
物語でこの点まで一致させてしまうと道長への当てつけがストレートすぎるから回避したのでしょうか。笑
敦康親王についての詳細はこちらをご覧ください。
さて、次回からこの若宮のずば抜けた魅力が描かれていきます。
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