源氏物語~帚木~


光源氏、と名ばかりが大仰で、「光」などという美名も打ち消されなさるような欠点も多いようですが、
「このような色恋沙汰の数々を後の世にまで伝えては、ますます軽薄だという評判を流すことになるのでは」
とお隠しになった秘め事までも語り伝えたそうで、本当に世の人はおしゃべりなことです。とは言うものの、たいそう世の中に気兼ねして真面目に振る舞っていらっしゃった光る君のご様子には、色好みで面白いところはなくて、交野の少将が見たら、きっと笑われたことでしょうね。
まだ光る君が中将でいらっしゃった時は、内裏にばかりお仕えなさって、大臣邸には時たま足を運びなさるといった具合でした。そんなわけで、左大臣家では、密かに浮気でもしているのではないだろうか、と疑い申し上げることもあったのですが、本来ならそのように浮気めいた、世間にありがちな出来心の恋愛などは好まないのが光る君の御性分でして、ただ、時にはうってかわって尋常でなくあれこれ思いを尽くした恋をお心にとどめなさる癖があいにくとおありなので、ふさわしくない振る舞いがまったくないというわけでもございませんでした。[

長雨が降り続き晴れ間のない頃に、内裏の御物忌みが続き、ますます光る君は内裏に入り浸りなさるのを、大臣家では、じれったく恨めしい、とお思いになりながらも、光る君のお召し物をあれこれ素晴らしく新調なさりつつ、大臣家のご子息方もまた光る君の宿直所にお勤めなさっているのでした。
大臣の正妻の宮様がお生みになった中将は、特に光る君と仲良くおなりになられて、管弦のあそびや他愛ないことなども、光る君に対して、他の人よりは気楽に接して親密な風にふるまっていました。舅である右大臣が丁重にお世話なさるお屋敷は、中将の君もまたとても嫌がっていたのですが、実はこの方は色好みで浮気性な人なのでした。ご実家でも、自分の部屋をまばゆいばかりに装飾を施して、光る君が出入りなさると、それに付き添いなさっては、夜も昼も、学問もあそびも、光る君と行動をともになさって一歩も後れを取らず、そんな風にしてどこにおいてもそばを離れず過ごしなさるうちに、いつの間にか気を置くこともなくなり、心に思うことを隠し立てすることもできないほど、馴れ親しんでいらっしゃいました。[

長々と雨が一日中降り続けてもの静かな宵に、殿上の間にも人はとても少なくて、光る君の例の御宿直所も、いつもよりはのんびりとした感じがしていたのですが、灯火を近くに書物などをお読みになる時に、近くの置き戸棚の中の、色とりどりの紙に書かれた手紙を中将の君が引っぱり出してしきりに見たがるので、
「見せても差し支えないものは少し見せてあげよう。まずいのもあるといけないから全部はだめだよ」
とお許しにならないので、
「その油断してみっともないとあなたが思っていらっしゃるものこそ見たいんだけどね。普通のなら、私も自分の身分なりに書き交わして見ていますよ。それぞれが恨めしい時々に、相手を待っている風な夕暮れ頃の手紙にこそ見所があるでしょう」
と恨みがましいことをいうのですが、特別に大切な手紙で、どうしてもお隠しになりたいものなどは、こんな置き戸棚などに無造作に置きなさるはずもないので、ここにあるのはさほどのものでもない、気軽なものばかりに違いありません。
中将の君がそれらの一部を見て、
「よくもまあ様々な手紙がございますね」
といって、当てずっぽうに、これは誰それのかと尋ねてくる中に、言い当てることもありました。見当違いのことも色々と考え合わせて疑ってくるのをおかしくお思いになるのですが、光る君の返事は言葉少なで、あれこれごまかして相手の女性が誰であるかをお隠しになるのでした。[

光る君が、
「あなたこそ、たくさんの恋文を集めていらっしゃるのでしょう。少し見てみたいものだ。そうしたらこの戸棚も喜んで開くだろう」
とおっしゃると、
「御覧になる甲斐があるのはほとんどないでしょう」
と申し上げなさりつつ、
「この人は完璧だというような女性はなかなかいないものだということがだんだん分かってきましたよ。ただうわべばかりの感情で筆を走らせ、その時々に応じた恋文の返事ばかりはどう書けば良いかを心得ていて、それなりに良いものも多いとは思いますが、それも、本当にその方面に優れた人物を選び出そうという時に、絶対に選ばないわけにはいかないというような女性はほとんどいないですね。
女は自分が知っていることだけをそれぞれが得意になっては人をバカにしたりして、みっともないことばかりだ。
親などが寄り添い娘をかわいがって、将来美しく育つことを期待されながら深窓に育っている間は、ただちょっとの才能を噂に聞いて心を動かすこともあります。実際、顔立ちがよくおっとりしていて、まだ若くて特に仕事もない間はちょっとした芸事なんかも、人の真似をして一つくらい風情あるように身につけることもあるにはあるでしょう。
そして、近くで世話をする侍女などが、欠点などは隠して、良いことばかり取り繕ってもっともらしく語るので、そんなことはないだろう、などと見もしないうちから当て推量に判断するわけにもいきません。それで、本当だろうかと見てみた時にがっかりしないということはまずないよ」[

と言って、頭の中将がため息をつく様子も何だかいたたまれないので、光る君も、今の話のすべてにというわけではないにせよ、ご自身にも思い当たる所があったのでしょうか、笑みを浮かべなさって、
「その、少しの取り柄もない人なんていうのは本当にいるものかね」とおっしゃると、
「まあ、その程度の女の所にだまされて寄っていったりはしませんが。しかし、何の取り柄もない残念な女と、立派だと思わず感心するほど優れた女とは同じくらいいるでしょう。素晴らしい家柄に生まれたら、人から大事にされ、人目から隠れることも多く、自然とその雰囲気は別格だろう。
中流階級の女にこそ、その人その人によってまちまちの気質や趣味が見られて、違いがあれこれ多くあるはず。下流階級にまでなってしまうと、別段興味も湧かないけどね」[

そう言って、何でも知っていそうな様子であるのに光る君はとても興味をひかれて、
「しかし、その階級というのはどんなだろう。どうやって上・中・下と分けたらいいのかな。
もともとは高貴な家柄に生まれながらも没落して位も低く、人並みですらないようなのと、逆に、普通の家柄に生まれつつ上達部などにまで成り上がった人が、我こそはと言わんばかりに邸の中を飾り立てて人に負けまいとしているのとでは、どちらが高貴でどちらが下賤だろう」
と問いかけなさる時に、左馬の頭と藤式部の丞が、
「我々も御物忌みに籠もりましょう」
といって参上しました。このお二人は世に知れた色好みで、とても口が達者でしたので、頭の中将は歓迎して、この階級についての問題をあれこれと論じて結論づけようとなさいます。
その中には、それはそれは聞き苦しいことが多くございました。[

「どんなに成り上がっても、もとの血筋が高貴でなければ、世の人の思いは、表向きとはやはり違うでしょう。また、もともとは高貴な家柄であっても、生活していく手立てがほとんどなく、時勢も移ろい、評判が衰えてしまえば、心までもが悪く残念になるようだから、どちらも中級としておくべきでしょう。
国守といって、よその国の内政に関わって精を出している者たちにも階級があって、その中にも、まあ悪くない中級の者を選び出すことが出来るご時世です。なまじっかな上達部なんかより、世間の評判も良く生まれも悪くない四位の者が、気楽に振る舞って生活しているのはとても小気味よいものですよ。そのようなのは、暮らしに不自由がないものですから、惜しみなく財を投じてまばゆいほど大切に育てている、非の打ち所もない娘もたくさんいるでしょう。そんな女性が宮仕えに出仕して、思いがけない幸せを手にした例も数多くありますよ」
などと言うと、
「結局の所、裕福であるかどうかによるということみたいだね」
と光る君がお笑いになるので、
「あなたらしくないことをおっしゃるものだ」
といって頭の中将は憎らしがっておりました。[

「もともとの家柄と世の評判が一致して高貴なあたりで、立ち居振る舞いや容姿が劣っているのは、言うまでもないことではありますが、どうしてこんな風に生まれたのだろう、とどうしようもなく思われるでしょう。
名声と実態が一致しているとしても、それはそれで当然のことであって、家柄にふさわしいことだと思われるだけで、別段素晴らしいことだと驚くこともありますまい。
私の手が届くはずもない最上流階級のことは置いておくとして。
さて、存在すら世に知られずに、寂しく荒れはてた家に、予想外にかわいらしい女性がひっそりと暮らしているようなのは、この上なく素晴らしく思われましょう。いったいどうしてこうなってしまったのだろうと、思っていたのと違うところから不思議と心にとまるものです。
また、年老いて、うっとうしく太りすぎた父親や、不細工な兄弟がいて、きっと娘もたいしたことはないだろうと想像されるその娘の部屋で、まさにその人がとても誇り高く、ちょっと鳴らし始めた琴やら何やらが素晴らしかったとしたら、少しの取り柄であるにしても、予想だにしなかったことですから、どうして興味がわかないものでしょうか。
取り立てて欠点のない女性選びということならそういう女性は無理でしょうが、それはそれとして捨てがたい魅力があるものですよ」
と言って、藤式部の丞を見ると、自分の妹にまずまずの評判があることを念頭に置いておっしゃるのか、とでも思ったのか、黙っておりました。
「いやはや、上流階級だと思うことさえ難しい世なのに」
と光る君は思っていらっしゃるに違いありません。白く柔らかいお召し物に、直衣だけを紐なども結ばずに着崩しなさり、物に寄り掛かっていらっしゃる光る君の姿が灯火に照らし出されているのはとても素晴らしく、女としてこの姿を拝見したいものでございます。この御方の相手として、上流階級の中でも最上の女性を選び出してもやはり物足りないようにお見えになりました。[

様々な女性の身の上についてあれこれ話し合って、
「ただの恋人として見るときには欠点がなくても、妻として信頼できる女性を選ぶ時に、多くの中からこの人こそと決めることはなかなかできないものですよ。男でも、朝廷に出仕してしっかりと世の重鎮となるべき、本物の器を見出すのは難しいはずです。
しかしまあ、たとえどんなに優れていても、一人や二人で世の中を治めることができるわけではないので、上の者は下の者に助けられ、下の者は上の者に従い、広い政治の世界は互いに助け合っているのでしょう。
妻として狭い家を任せる女性について思いを巡らすと、不足があっては困る大事なことが細々とたくさんあります。
一方が良ければもう一方が悪いなどちぐはぐで、平凡ながらも及第点というような女さえ少ないので、浮気な心が向くままに人の姿をたくさん見比べようという好みからではなく、あくまでも、一途に妻を定めるための手立てとするために、どうせなら自分が根気よく欠点を直したりする必要のない、思い通りの女はいないものかと選び始めた人は、妻を定めることが難しいでしょう。
必ずしも自分の思い通りではなくても、関係を持った女性との縁を捨てがたく心にとめる人は、世間から誠実な人だと見られ、またその女性までも奥ゆかしい人に思われるのです。
しかしどうしたものか、世の中の様々な夫婦を見ましても、想像を絶するほどで、羨ましく思う関係にお目にかかったことはあまりないですよ。
光る君や中将様のような立場でこの上ない女性を選ぶということになると、ましてどれほどの人が釣り合うのでしょう。
私のような気楽な身でさえしっくりくるのはなかなかね。
容貌は小綺麗で、若々しい時には塵もつけまいとばかりに慎重に振る舞って、手紙を書いても、悠々と言葉を選び、墨も薄くしてもどかしく思わせて、しっかりと姿を見たいものだとじれったく待たせ、男はほんの少しでも声を聞こうと言い寄るけれど、女は声をひそめ、口数も少なくするのが、とてもよく欠点を隠すのですよ。[
上品で女性らしいと思ってみると、そういう人はあまりにも恋愛に臆病で、しかしそんな人でも調子を合わせているうちに浮ついてきます。これを女性の難点の第一とするべきでしょう。
家庭内の仕事の中で、いい加減であってはならない夫の世話については、物事の情趣を知り過ぎていて、ちょっとした機会にいちいち風流を気取り、そんなに風情を追求しなくてもいいだろうと思いますが、また一方では、ばか真面目に家事一本槍で身だしなみも気にせず、美しい所のない主婦がひたすらまんねりな世話ばかりをして、というのもね。
朝出かける前にしても、夜帰った後でも、仕事の場や個人的な付き合いの中で目にとまり噂に聞いた人の振る舞いや、良いこと悪いことなど、話したいことはあるものですが、馴染めない人にわざわざ語って聞かせましょうか。やはり共感してくれる妻とこそ、そういうことを語り合いたいものだ、と思うもので、微笑ましいこと、涙ぐんでしまうこと、無性に腹が立つことなど、自分の胸の内にしまっておけないことも多くありますが、理解を示さない妻にどうして言えようか、と思うと背を向けてしまい、人知れず思い出し笑いをしたり、ああ、とつい独り言を言ったりする時に、どうしましたか、などと間抜けな感じで見上げているとしたら、そんな妻は残念に決まっています。
ひたすら子どもっぽく、素直な女性をあれこれ自分好みに仕立てていったら、どうして結婚せずにいれましょう。多少心配な点があっても、改善の余地がある気がするはずです。
しかし、本当に向かい合っている時にはかわいらしさにそんな欠点も許してしまうでしょうが、離れている時には、しかるべき用事を言いつけ、なにかの折節にやらなければならないことが、他愛ないことにせよ真面目なことにせよ、自分では判断できずにいたり、また深い配慮もなかったりしたら非常に残念で、その頼りなさはやはり心苦しいでしょう。
また、普段は少しよそよそしくて気に入らない女性が、何かの折に見栄えがするということもありますよ」
などと、ありとあらゆる女性について語るものの、結論を出しかねて深いため息をつくのでした。[10

「もはや、女性はただ家柄によるというものでもないのでしょう。顔立ちのことも言うまい。とても残念でひねくれているという噂さえなければ、ただひたすらまじめに、落ち着いた心を持つ女性を、生涯寄り添う妻と思うのが良いでしょう。
必要以上に風流や思慮深さがあるのを喜ばしく思ったりせず、また少し劣ったところがあるような点に対して無理に要求したりはしないとして。心配なところがなくおっとりしてさえいれば、うわべの風情は身につけることができますからね。
優美な様子で恥ずかしがって、恨み言をいうべきことも、見知らぬふりで我慢して、表面上は平気なふりをしていて、それで思いを胸にしまっておけない時は、言いようもなく冷ややかな言葉や、しんみりするような歌を詠み残し、男が恋しがるような形見を残して深い山里や人里離れた海辺などに密かに隠れてしまう女というのがいるのですよ。
子どもの頃は、女房などがそんな筋の物語りを読むのを聞いて、とてもしみじみ悲しく、深い心だなあと涙までこぼしたものです。
しかし今思うと、そういう女性の振るまいはとても軽々しく、またわざとらしいことです。深く愛している男をおいて、例え実際につらいことがあったとしても、男の心を知らないように逃げ隠れて動揺させ、男の本心を見ようとするうちに、終わりなき物思いへと発展していく、これはとても空しいことです。
女性は、思慮深いことです、などと周りに褒められて感情が突き進むと出家して尼になってしまうのですよ。[11
出家を決心する時はとても心が澄んでいるようで、俗世を振り返ることなどは思ってもいません。
『ああ、本当に悲しいことです。よくもまあ出家しようなどとお思いになったことですよ』
などとよく知っている人が会いに来て、ただただつらいと忘れることができずにいる男が出家したことを耳にして涙を落とすと、侍女や年配の女房達が、
『あの御方のお心は情愛深いものでしたのに』とか『もったいないほどお美しかったのに』などと女に言うのです。自分でも、頬のあたりにまで掛かるべき前髪を触ってみると、ひどく短く心細くて泣き顔になるのですよ。我慢しても涙がこぼれてしまうので、何につけても耐えられず、出家したことを後悔することも多いので、仏様もかえって不純であるとご覧になるでしょう。俗世にいた頃よりも、中途半端に仏道に身を置いてはかえって悪道に落ちるような気がいたします。前世からの深い因縁で、出家する前に探し出したような場合も、男にとっては後々嫌な思い出になるのです。
悪い時も良い時も寄り添い、男が何かしでかした時も見て見ぬふりをしたような仲こそ、夫婦の契りも深く、しみじみと情愛深いものがありましょう。それなのに、出家騒動などがあっては後々のことを考えると心配で気を許すことなどできましょうか。
またちょっと惹かれる女性がいるというだけで恨みに思い、露骨に怒って背を向ける、これもまた馬鹿げたことでしょう。浮気なところがあっても、結ばれたころの愛情を大事に思うならば、男を思い出のより所としておけばよいのに、動揺して取り乱したりすると、それで夫婦の縁が切れてしまうのです。
あらゆることに対して穏やかに構え、男の浮気に嫉妬しても知っている様子でほのめかすにとどめ、恨み言を言うような場合でも、感じよくほのめかすならば、それによって男はその妻をますます愛しく思うでしょう。
多くの場合、浮気は妻の出方次第でおさまるものなのです。あまりにも、男を寛大に放置しているのは、男としては気が楽ですし、そんな妻はかわいいようですが、どうしても男から軽んじられてしまうでしょうね。岸につながれていない船がただよっているような浮気はつまらないというのも、なるほどもっともなことです。そうではございませんか」
というと、中将の君は頷きました。[12

中将の君は、
「取りあえず言えるのは、かわいかったり愛しかったり、とにかく気に入った相手が浮気をしているかもしれないと頼りないのは一大事だろうね。自分にやましいところはなく、男の浮気を見逃せば、男も改心してまた自分を愛してくれるだろうと思われるけれど、それが実際にはそうはいかないようだ。ともかく、意に染まないところがあっても平然とした様子で堪え忍ぶより他に、良い手はないでしょうな」
と言って、この光る君に嫁いでいる我が妹は今言ったとおりの状況だ、と思うのですが、肝心の光る君がうとうとして何もおっしゃらないものですから、つまらなく不愉快なことだと思っているのでした。
左馬の頭は女博士にでもなった気で、べらべらとよくまあ喋っています。中将の君は、この理論を最後まで聞いてやろうと熱心に耳を傾けていらっしゃいました。
「さまざまな例を引き合いに出して考えてみてください。家具職人が様々なものを自分の思い通りに作り出すのも、即興で作る、特に様式が決まっていなくて見た目がしゃれた感じのものも、なるほど、こんな風に作ることができるんだなあと、流行にあわせて感じを変えて今風にしているので、その目新しさにひかれて興味深いものがあるものです。
しかし、重大なものとして本当にきちんとした、部屋を彩る調度で、決まった様式があるものを完璧に作り出すということになると、やはり本物の名人の仕事は別格で、一目で見分けがつくものです。[13
また、絵所に絵の上手な人は多くいますが、大和絵を描くのに下書きを任された人から順々に描いていくと、上手か下手かの区別はたやすくは見分けることができません。
しかし、人が見ることの出来ない蓬萊山や、荒れ狂う海の恐ろしい魚、中国の凄まじい獣、目には見えない霊の顔などのような大袈裟に描き上げた絵は、一際目を引くように自由気ままに描いていて、本当の姿とはほど遠いでしょうが、それはそれで成立しているのです。
世の中に当たり前に存在している山のたたずまい、水の流れ、見慣れている人家の様子がなるほどと見えて、心惹かれる穏やかなものをさりげなく混ぜて描き、険しくもない山は木に深く覆われて俗世とはかけ離れた雰囲気で幾重にも連なり、身近な籬のうちなどは、その家主の気配りや様式などを書くにあたり、名人は筆の勢いが別格で、下手な人には及ばない所が多いようです。
字を書いても、深いところがなくて、あちこち崩して走り書き、どことなく雰囲気があるのは、ちょっと見ると才能があって気取った感じですが、やはり本格の書法で丹念に書いているのは、うわべの華やかさはなくても、前者のと比べてみるとやはり本格の方に軍配が上がります。
ちょっとしたことでさえこういう具合なのです。
まして、その時々によって気取って見せる人の心ですから、見かけの愛情を信じるのは難しいように思われます。さて、ここで私自身の昔の話を、好色めいた感じに思われるかもしれませんが、お話ししましょう」
といって、近くに寄るので、光る君も目を覚ましなさいました。中将の君は左馬の頭の話にとても入れ込んで、頬杖をついて正面に陣取っていらっしゃいます。まるで法師が世の道理を説教するかのような感じなのも、おかしくはございましたが、このような折には、それぞれ恋の秘め事を語らずにはいられないのでした。[14

「ずっと前、まだ身分も低かった頃ですが、心を寄せる女性がいました。さきほど申し上げましたような感じで、さほどの美人でもございませんでしたので、若い頃の愛欲では、この人を生涯の伴侶にしようとは思いませんでした。妻だとは思いながらももの足りなくて、あちこちと別の女性に手を出していましたが、その妻がひどく恨むものですから、それが気に入らなくて、こんな風ではなくてもっとおっとりしていたらなあ、と思いつつ、あまりにも厳しく疑ってくるのが鬱陶しくて、パッとしない私など見捨てればいいのに、どうしてこんな風に思ってくれているのだろう、と心苦しく思う時もたびたびございまして、自然と浮気心がしずまるようになりました。
この女は、もともとは考えの及ばなかったところも、私のために何とか手をつくし、劣っている点についてもがっかりさせまいと励んで、何かにつけて私の面倒を熱心にみてくれて、気に入らないなどとは絶対に言わせまいとする様子に気の強さも感じましたが、とにかく私に心を寄せておしとやかになっていき、美しくない容貌も、私に疎まれるのではないかと無理に化粧をして取り繕い、客人に自分の醜い顔を見られたら夫の面目がつぶれるのではと気兼ねして出しゃばらないし、貞節も固く、次第に慣れ親しんでいきました。
しかし、この女は性格も悪くはなかったのですが、嫉妬深いという憎らしい一面だけは直ることがありませんでした。[15

その頃、私が思ったことは、
『こうして一途に私を慕い、またおどおどしているような人だ。何か懲り懲りするようなことをしてこの妻を脅かして、この嫉妬深さも意地の悪さもなおしてやろう』と思い、『嫉妬に本当に嫌気がさして離縁に踏み切りそうな素振りを見せていたら、女は自分にあれほど首ったけなら懲りるだろう』と思いまして、わざとそっけなく冷淡な態度を見せて、いつものように妻が腹を立てて恨むので、
『お前がこんな風に気が強いなら、どんなに夫婦の縁が深かったとしても別れよう。お前の方ももう終わりで良いと思うなら出鱈目に疑っているがいいさ。末長く夫婦でいたいと思うなら、恨めしいことがあっても我慢しておおらかになって、その嫉妬深い所さえなくなれば、私はお前をとても愛しく思うことができるだろう。私が人並みに出世して少し成長すれば、お前は最愛の妻になるだろうな』
などと、我ながらうまくいったものようと思い、いい気になって喋りたおしていましたら、女が少し笑みを浮かべて、
『色々と、あなたが見栄えがせず目立ったところがない間を耐え忍び、一人前になる日がくるかしらと待つのはたいそう穏やかでいられて、不満もございません。しかし、あなたの薄情さに我慢しながら、あなたの浮気性が直る機会を見出そうと無駄な期待に年月を重ねていくのはとても苦しいに決まっているので、お互いに別れるべき時のようですね』[16

と、憎たらしく言うものですから、腹が立って憎まれ口をさんざん言ってやりましたが、女の方もおさまらない性格なもので、私の指を一本引き寄せて噛みついてきましたので、おおげさに騒ぎたてて、
『こんな傷までついてしまっては、みっともなくてもう宮仕えもできたものではない。あなたは私の官位を馬鹿にしましたが、これではますます出世など望めたものではないな。もう出家して仏門に入るしかないようだ』
などと言って脅かして、
『では、今日であなたとの関係もおしまいみたいだな』
と噛まれた指を痛そうに折り曲げながら出て行きました。
手を折りてあひ見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし
〔あなたとの生活を振り返って指折り数えると、あなたの苦々しいところはこれ一つだけではないよ〕
私を恨むことはできないでしょう』
などと言ってやりましたところ、さすがに女も泣いて、
うきふしを心ひとつに数へきてこや君が手をわかるべき折
〔辛い悲しみを私ひとりの心の中で数えあげてきましたが、今こそ別れるべき時のようですね〕
などと言い争いましたが、本当のところ、私は今までと変わらずに関係が続くと思っておりまして、数日が経つまで手紙も送らずふらふらと歩き回ってばかりいて、賀茂の臨時祭りの楽器の練習をしているうちに夜が更けて、みぞれがしきりに降っている中、皆とお別れしましたあとで、さて自分はどこへ行こうかと思い巡らすと、やはり私が帰るべき家と思えるのはその女の所しかなかったのですよ。
宮中の泊まりこみも面白くないだろうし、気取った女の所も居心地が悪いのでは、と思いましたので、あの女はどう思っているだろうかと、様子も見がてら雪を払いつつ例の女の家に向かいましたが、何だかきまり悪くてモジモジしてしまうものの、まあ今夜で数日来の恨みは消えるだろうと思っておりましたところ、火は壁に向けてかすかに灯し、分厚い着慣れた私の衣服を大きな伏せ籠に掛けて、几帳の帷子などもちゃんと引き上げて、今夜あたり来るのでは、と私を待っている様子でした。
思った通りだ、といい気になったのですが、肝心の本人の姿はありません。しかるべき女房だけがいて、今夜はご両親がいる実家に行かれました、と答えるのでした。[17

優美な歌も詠まず、思わせぶりな手紙も書かず、とても無愛想で薄情に出て行ってしまったので、つまらない気がして、意地悪く私を許さなかったのも、自分を嫌いになって欲しいとでも思っていたのではないかと、さすがにまあそれは考えすぎだとは思うのですが、衝撃のあまりそんな風に疑ってみたりもしました。
用意されていた私の着るものは、いつも以上に気を配った色合いや仕立て方がとても理想的で、私を捨てて出て行った後まで気にかけて世話をしてくれたのでした。そんな状況でも、決して私を見放すようなことはないだろうと思って、あれこれ言ってやりましたが、女は完全に縁を切るでもなく、身を隠して途方に暮れながらあちこち探させようというわけでもなく、きまり悪くないような返事をしては、ただ、
『かつてのようなお心のままではやり過ごすことはできません。改心して浮気をやめ、落ち着くというのならまた一緒に暮らすこともできましょう』
などと言ったのですが、そうは言っても私と別れることはできないだろうと思っておりましたので、しばらく懲らしめてやろうという気持ちで、改心しようなどとも言わず、強く意地を張っているうちに、女はひどく嘆いてそのまま死んでしまいましたので、冗談では済まされないことだと後悔しました。
生涯の妻としてあてにするような女性は、あのような人がよいのだろうと思い出されます。ちょっとした風流ごとも実生活の大事なことも、相談し甲斐があったし、龍田姫と言っても良いほど染め物の技術もあり、織姫にも劣らないほど裁縫の技術も持ち合わせていて素晴らしかったのです」
といって、とてもしんみりとした気持ちで思い出しています。
中将の君は、
「その織姫のような裁ち縫いの技術はさておいても、彦星との長い契りにあやかればよかったのに。しかしまあ、なるほど、その龍田姫のあやなす錦には並ぶものがないでしょう。ちょっとした桜や紅葉も、季節の色合いが似つかわしくなくてパッとしないのは、露ほども見栄えがしなく、台無しになってしまうものだ。その奥さんも露のようにはかなく死んでしまうのだからね。だから妻を選ぶのは難しい世の中だといって決めかねるのだなあ」
と話をはずませなさるのでした。[18

「さてまた同じ頃、私が通っておりました女性は優れた人柄で、本当に風情があり、歌を詠んだり手紙を走り書きしたりしても、琴をかき鳴らす音も、すべて素晴らしく見聞きしておりました。容姿も無難でございましたので、例の嫉妬深い女を常の通い所として、時々こっそりと会っておりました時分は大変なお気に入りでした。
しかしこの嫉妬深い女が死んでからはどうしたものでしょう。死んだ女については気の毒なものの、そうなってしまったものは仕方がないので、しばしば通い続けていくと、ちょっと目を背けたくなるほど艶やかで風流を気取っていて気に入らない所があり、どうにも信用できず、たまにしか顔を見せなくなりましたが、その頃、女には密かに愛しあう別の男がいたらしいのです。
十月頃の月が美しかった夜、内裏を出ましたところ、とある殿上人に会ったので私の車に乗せました。私は大納言殿の家に泊めていただこうと思っていたのですが、ふとこの人がこう言ったのです。
『今夜私を待っている家が妙に気にかかるのです』と。
先程の女の家というのが、ちょうど通り道なものですから、崩れた土塀から池の水に月影が映っているのが見えて、月でさえここに宿るのに素通りするのはさすがにもったいない気がして私たちは車を降りました。[19
以前から女と情を交わしていたのでしょうか、この男はひどくそわそわして、門から近い渡り廊下の縁側のような所に腰掛けて、月を見ています。庭の菊がすべて変色していてとても面白い景色で、風に吹き飛ばされまいとする紅葉の様子なども、本当にしんみりとした風情がありました。
懐から笛を取り出して吹き、『影もよし』と催馬楽の一節を口ずさむうちに、女の方も調子を整えた美しく鳴る和琴を笛に合わせて掻き鳴らした様子は、悪くないものでしたよ。簾の内から聞こえてくる、穏やかな律の調べは今風の音色で、清く澄んだ月に似つかわしいものでした。
男はたいそう感心して簾のもとに歩み寄って、
『庭に散り敷いている紅葉には人が訪れた跡もないね』などといって、意地悪なことを言いました。男は菊を折って、
琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける
〔あなたが弾く琴の音色も見える月も並々ならぬ家でありながら、薄情な人を引き留められなかったようで〕
残念ですね』などと言って、
『もう一曲お願いしますよ。せっかく私が来ているのだから、出し惜しみなさるものではありません』などと戯れると、
女はたいそう声を繕って、
木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべき言の葉ぞなき
〔木枯らしのように冷たいあなたの笛の音色ですから、あなたを引き留める言葉なんてないでしょう〕
とじゃれあっているのです。[20
私が憎悪の念を募らせているのも知らずに、今度は箏の琴を盤渉調にして今風に弾いている、その音色に才気は感じるものの、わざとらしい風流気取りには目を覆いたくなる心地がしました。
ただ時々愛を語らうくらいの宮中の女房などが風流をきめこんで好色めいているのは、それはそういうものとして付き合う分には面白いでしょう。
しかし、たまにであっても通っていく妻とするには信頼できず、行きすぎたところがあるようで心が離れ、その夜のことを口実にその女とはきっぱりと別れました。
この二つの事例を考えあわせますと、若いころの心にさえ、やはりそのように目立ちたがりの女はとてもいかがわしく信頼できないと思われました。まして、今となってはなおさらです。
心の赴くままに折ったら落ちてしまいそうな萩の上の露、拾えば消えてしまいそうな笹の上の霰などのように、優美でか弱い感じの風情ばかりに、興味深く御心をひかれなさるでしょうが、今はそうでも、あと七年もすれば私の言っていることがお分かりになりましょう。
私のお粗末な教訓から、浮気性な女とは距離をお置きください。そのような女はきっと過ちをおかして、みっともない噂を立て、夫が恥をかくことになるのです」
と忠告をするのでした。中将の君は例によって頷いております。光る君は少し笑みを浮かべて、なるほどとお思いになっているようです。
「両方とも外聞が悪く、きまりの悪い話だなあ」
といって、皆でお笑いになるのでした。[21

中将の君は「私は馬鹿な男の話をしましょう」と前置きして、
「誰にも知られぬよう密かに通い始めた女がいて、そんな関係でよさそうな雰囲気だったものですから、長続きするものとは思っていませんでしたが、通い慣れるにつれて、しみじみ良い女だと思われたので、時たま通っては忘れられないものと思っていたのですが、そうこうするうちに女の方も私を信頼するようになりました。
『信頼されるのは嬉しいが、恨めしく思われることもでてくるだろうな』と心に思ったりもしましたが、女は気にも留めない風で、私が長いこと訪れないことについて、たまにしか来てくれない薄情な人とも思っておらず、ただただいつも抜かりなく世話をしてくれる後ろめたさから、ずっと私を信頼するようにと言い聞かたりもしました。その女には親もなく心細い様子で、それならこの人をこそ、と何かにつけ私を頼みにしているのも愛らしくございました。
このように女がのんびりしているので、私も油断してしばらく訪れずにいた時に、私の本妻から冷酷でひどいことを、何かしらのつてを通じて、それとなく女に言ったのだと、後で聞き及びました。そんな嫌なことがあったとも知らず、女のことは忘れずにいながら手紙も送らずに久しくなってしまい、女はひどくしょげて心細かったようで、思い悩んだ末に撫子の花を摘んで、手紙に添えて童女に届けさせたのです」
そう言うと中将の君は涙ぐんでいました。
光る君が、
「それで、その手紙には何と?」
とお尋ねになると、
「いやまあ、何というほどのこともなかったのですが。
山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子の露
〔山里の家の垣根が荒れてはいても、たまには露ほどでも情けをかけてくださいませ。撫子のように可憐な娘に〕
私は思い出したように女の家に行ってみたところ、いつもの通り穏やかな感じではあるものの、ひどく物思いに沈んだ表情で、露がたくさんおりている荒れた庭をぼんやりと眺め、虫の鳴き声と張り合うかのように泣いていたその様子は、まるで昔の物語の情景のように私には思えました。
咲きまじる花はいづれとわかねどもなほ常夏にしくものぞなき
〔様々な花が咲いている中でどれが一番とは分かりませんが、やはり常夏の花のようなあなたが最高です〕
娘のことはさておき、『夫婦の寝室に塵さえもつかないようこれからは頻繁に通って来よう』などと 、母親の機嫌を取りました。
うちはらふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり
〔あなたがお出でにならない寝室の塵を払う袖は涙に濡れています。常夏の花にも強い風が吹きつける秋がやってきたことですし、あなたもすっかり私に飽きたのでしょう〕
と頼りない感じで言い、本気で私を恨んでいる風でもありませんでした。[22
女は泣いているところを見られるのもとてもきまり悪く気が引けるようで、涙を隠し、『あなたの薄情さを思い知りましたよ』と思っているのだ、などと私に思われるのがどうにも嫌な性分の女だったので、私は変に気を遣わず、気楽に構えてまたしばらく通わずにおりました間に、女は跡形もなく姿を消してしまいました。もしまだ生きていたら、この頼りない世の中をさすらっていることでしょう。その女を愛していた時に、もし煩わしいほどしつこく私に迫ってきていたら、このように逃がしたりはしなかったでしょう。足繁く通い、相応の妻として長く一緒に過ごしていたことでしょう。
その女との間に出来た娘がかわいらしくございましたので、どうにか訪ねたいと思っているのですが、今なおその所在をつかむことができません。
これこそ、左馬の頭殿が先程おっしゃった、頼りない例でしょう。表向き平気なふりをして、内心では耐えがたく思っていたことも知らずにその女を愛しく思い続けていたのも、私の空しい片思いだったのです。
徐々にその女への思いを忘れていく今になって、女もひょっとしたら私のことを忘れられず、自分のせいで胸を焦がす夕べも時にはあるかもなあと思ったりもします。これなどは長く関係を保つことができない、頼りない部類の人でしたね。
ですから、先程のお話にあった指に噛みついてきた女も、印象深くて忘れがたいでしょうが、やはり顔を合わせて暮らすには煩わしく、下手をするとすぐに辟易することもあるでしょう。琴の音色に惹かれたという才女にしても、好色な罪は重いでしょう。
この常夏の女のはっきりしない態度も疑わしいところが出てくるに違いないので、この人こそ、と決めきれなくなってしまうのが男と女の世なのですよ。ただこのようにどうあっても扱いにくいものです。さまざまな長所を掛け合わせ、難点がまったくない女はどこにいるのでしょうか。吉祥天女に思いを掛けようとするのも仏教じみているし、辛気くさいのもまたつまらないに決まっています」
と言って皆で笑うのでした。[23

「式部殿こそ面白い話があるだろう。少しずつお話しなさい」
と中将の君が責め立てなさいます。
「私のような低い身分の者の話はお聞きになってもつまらないでしょう」
と式部の丞は言いましたが、中将の君が真剣なまなざしで
「早くしろ」
とお責めになるものですから、
「では何をお話し申し上げましょうか」
と式部の丞はあれこれ頭の中で思いを巡らせて、
「まだ私が文章道の学生でございました時分、すぐれた女性と巡り逢いました。その女は、左馬の頭殿が申し上げなさった中にあったように、宮中での仕事や行事など公的なことも相談でき、もっと個人的な生活の心構えについても思慮深く、学問についても生半可な博士ではたちうちできないほどで、まったく私が文句を言うことはありませんでした。
いつ知り合ったかといいますと、ある博士のもとに、学問をしに通わせていただいていたころ、その博士には娘がたくさんいると聞きまして、ちょっとした機会に言い寄ったのでございますが、それを親の博士が聞きつけて、盃をもってきて『わが二つの道歌うを聞け』と白楽天の婚姻の詩を吟じたのですが、私としてはそういう気持ちは少しももっておらず、といって親心に気兼ねして、無下にするわけにもいかずにその女と関係をたもっていたという次第でして、その時の女というのが、本当に心を打たれるほど私のことを思って世話をし、寝室でも朝廷で働くのに役立つような教養を教えてくれ、手紙にしても、とても美しい字の本格的な漢文体で書いてよこしますので、絶えず通い続け、その女を学問の師として下手くそな漢詩を作るのをちょっと習ったりしたものですから、今もその恩は忘れてはおりませんが、親しみを覚える妻とするには、学才のない私にとっては、何だか見苦しい振る舞いなどを見られるのが気恥ずかしく思われてなりませんでした。
まして、光る君や中将の君のような方々にとっては、そのような類いのしっかりとしたお世話など必要ないでしょう。しかし、つまらなく残念だと思う所はありつつも、私の心をとらえて離さない所もあり、前世からの縁もまたあるようで。男というのはしょうもない生き物のようです」
と申し上げると、聞いていた方々は続きを言わそうとして、
「それから?」
「興味深い女だなあ」
と勢いづけなさるので、式部の丞はおだてられていると知りつつ、まんざらでもない様子で鼻をひくひくさせて話を続けるのでした。[24

「そうしてしばらく訪れずにいましたが、何かのついでに立ち寄ってみますと、いつものように気を許した感じではなく、何か物を隔てての不快な対面となりました。嫉妬でもしているのだろうかとばかばかしく思ったり、別れ話を切り出すのにちょうど良いとも思ったりしていましたが、この賢女が軽はずみな嫉妬などするはずもなかったのです。男と女というものを分かっていて、私を恨んだりはしませんでした。
そして軽快な口調で言うには、
『ここ数ヶ月、重い風邪にかかって耐えがたく、ニンニクの薬を服用してきつい臭いがするため対面ができません。直接お顔を合わせずとも、しかるべき御用は承りましょう』
と、とてもしみじみともっともらしく言うのです。私はどう返事をしたら良いか分からず、ただ「そうですか」といって、帰ろうとしましたが、女は物足りなく思ったのでしょうか、
『この嫌な臭いがなくなるころに、またお立ち寄りください』
と声高に言うのを、聞き流してしまうのも気の毒です。とはいえ、迷っている場合でもなく、本当にその臭気が強烈なのもたまらなくて、逃げ腰になり、
ささがにの振舞しるき夕暮にひるま過ぐせと言ふがあやなき
〔クモが巣を張れば愛しい人が訪れるという、そのクモの動きで私が来るのが明らかに分かっているはずの夕暮れ時に、ニンニク臭が消える明日の昼間を過ぎるまで待てというのはどうにもおかしな話です〕
追い払うにしても、もう少しましな口実があるでしょうに』
と言いながら走るように逃げ出て行きましたが、女は追いかけて、
逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何かまばゆからまし
〔毎晩逢っている夫婦であれば、ニンニクの臭気漂う昼間に会うことだって何を恥ずかしがることがありましょうか。でもあなたはちっとも訪れてくれないものだから…〕
さすがに返歌は素早くございましたね」
と、落ち着いて申し上げると、光る君や中将の君はびっくりして、
「嘘だろう」
と言ってお笑いになりました。
「どこの家だ。そんな女が本当にいるのか?いっそのこと、鬼と向かい合っていた方がまだましだ。ぞっとするよ」
と爪弾きをして、どうしようもないと式部の丞を馬鹿にして憎んで、
「もうちょっとましな話をしろよ」
とお責めになるのですが、
「これより珍しいことがございましょうか」
といって座っておりました。[25

「何にせよ、男も女もだめな輩はちょっと知っていることをすべて人に披露してやろうと思っているのが困りものです。
三史や五経といった学問の道を、解明しつくそうとするのはかわいげがないですが、女とはいえ、世の中の様々なことを公私につけてまったく知らないというわけにもいきません。わざわざ習得しているわけではなくとも、少し学才のある女の噂が耳に入ったり目にとまったりすることはあるでしょう。しかしだからといって漢字を書き散らして、ひらがなで書くべき女同士の手紙の半分以上が漢字だったりするのは、嫌だ嫌だ、もっとおしとやかだったらなあ、と思われるものです。書いている本人としては何の他意もないのでしょうが、読む方にしてみればそのような文は自然と堅苦しい声で読まれ、わざとらしく感じられるのです。このようなのは上流階級の女性にも多く見られることですよ。
一人前の歌詠みだと自負している女が、歌にとらわれて興趣のある故事などを自分から和歌に取り込んで、興ざめな時に詠みかけてくるのは不愉快なものです。
返歌をしなければ風情がないし、また返歌を詠めないとなればみっともない。
朝廷でのしかるべき宴など、例えば端午の節句に急ぎ参内した朝、心を静めることもできないような時に、文句のつけようもないほど素晴らしく菖蒲の根を掛けた歌を詠みかけてきたり、重陽の節句で作詩をしなければならず、難しい詩の内容を思い巡らすので忙しい時に、菊の花に降りた露にかこつけて歌を寄こしてきたり、などといった意に染まないことに付き合わせ、またそうではなくても、後々思えば確かに面白く趣深いはずだったことでも、その時点では相応しいとは思えず目にとまらないことを、女がそうと察しないで歌を詠み出すのは、かえって気が利かないと思わざるを得ません。
何事においても、今はそうするべきではないと思われる時を見分けられない程度の思慮なら、風流ぶったりしない方が、感じが良いでしょう。知っていることも知らないふりをし、言いたいことも一つ二つは言わずにやりすごすべきでしょうなあ」
と左馬の頭が言うと、光る君はただ藤壺様お一人のことを胸に思い続けなさるのでした。
「あの方は、不足なところもなければ出すぎたところもなくいらっしゃったことよ」
と、その比類ない存在にますます胸がいっぱいになりました。
さて、この女性論はどこかに行き着くこともなく、仕舞いには奇怪な話になって夜は明けたのでございます。[26

この日、ようやく天気が良くなりました。このように内裏に籠もってばかりなのも、義父の大臣殿のお気持ちを考えると気の毒なので、光る君は大臣邸にお出かけになるのでした。邸内の様子もご内室の様子も、鮮やかで気品があり、乱れたところなど一つもございませんでした。やはりこの方こそは昨夜の話にあった、捨てがたい誠実な人として信頼できるよ、とはお思いになるものの、あまりに整いすぎているご様子は気が休まらず、きまりが悪そうにしながら落ち着き払っていらっしゃるのは、光る君の意に染まなくて、中納言の君や中務などといった上等な女房たちに冗談をおっしゃり、暑さに耐えかねてお召し物が乱れていらっしゃるご様子を、素敵だわと女房たちは思っているのでした。
大臣殿もお越しになると、光る君がくつろいだ姿でいらっしゃるので、御几帳を隔ててお話し申し上げなさると、小声で、
「暑いのに・・・」
と光る君が渋い顔をお見せになるので、女房たちは笑うのでした。
「しっ、静かに」
と女房たちを制して肘掛けに寄りかかりなさるなど、とても自由な御振る舞いでございます。
暗くなるころ、女房たちが、
「今夜、内裏からこちらのお屋敷の方角は天一神によって塞がれておりますよ」
と光る君に申し上げました。
「そうだね」
一般的に、天一神がいらっしゃる方角は慎んで避けるものでございます。
「二条院にも、同じ方角だから行けないし。どこへ方違えしようか。今日はとても気分が優れないのに」
といって、光る君はそのままお休みになってしまいました。
「方違えをしないなんて、とても恐ろしいことですわ」
と女房たちは申し上げます。従者が、
「源氏の君様に親しくお仕えしている紀伊の守の中川あたりにある家は、近ごろ改築して川の水を邸内に引き入れており、涼しくございます」
と申し上げると、
「それはとてもよさそうだ。気分が悪いから、牛車に乗ったまま邸内に入れる所を希望したいね」
と光る君はおっしゃるのでした。[27

お忍びで方違えする女性のお屋敷はきっとたくさんあるはずですが、大臣殿が、
「久しぶりにお出でになったのに、方違えで他の女性の所へ行かれるとは」とお思いになるのも気の毒だ、と光る君はお考えになったのでしょう、紀伊の守に方違えで出向く件をお問い合わせなさると、紀伊の守は承知したものの、退いて、「伊予の守殿の家で物忌みがございまして、その家に仕える女房らが私の邸に来ておりまして、狭い家ですから、光る君様に失礼な気がします」
と、あとで愚痴をこぼしたのを光る君は伝え聞きなさって、
「その人近いのが嬉しいじゃないか。女っ気のない外泊は薄気味悪い感じがするだろうから。私の寝所はその女たちの几帳の後ろでいいぞ」
とおっしゃると、従者も、
「なるほど、悪くないお泊まり先で」
といって、使いを走らせました。光る君は、あまり大げさにならないようにと急いでお出かけになり、大臣殿にも行く先を申し上げなさいません。お供にも、親しい者だけを引き連れて方違え先である紀伊の守の邸にいらっしゃったのでした。[28

紀伊の守は「こんなに突然…」と困惑しておりましたが、誰も聞き入れません。寝殿の東側の部屋をきれいに掃除させて開放し、光る君の部屋をしつらえて急場をしのぎました。遣り水の風情などは、身分の割にすばらしく造ってありました。そして、田舎の家のような柴垣をめぐらせ、庭にはよく考えて木々が植えらております。風は涼しく吹き込み、どこからか虫の声が聞こえ、蛍がたくさん飛び交って、素晴らしい景色でございました。
光る君が連れてきた従者たちは、渡り廊下の下から湧き出ている泉が見えるような所に陣取って酒を飲んでいます。紀伊の守も、つまみを求めてせわしく歩き回る間、光る君はのんびりと庭の景色を眺めなさって、
「昨晩、彼らが中流階級の話をしていたのはこのくらいだろうな」
と思い出していらっしゃいます。
物忌みでこちらに来ているという伊予の守家の女房は、気位が高い女だと聞き知っていたので、光る君は会ってみたくて耳を澄ましていらっしゃると、この寝殿の西側の部屋に女がいる雰囲気がありました。衣がすれる音がサラサラとして、若い女の声も好感が持てるものでした。さすがに光る君たちに遠慮して密やかな声で笑ったりする様子でしたが、わざとらしい感じもいたします。はじめ、女たちは格子を上げていたのですが、紀伊の守が軽率だといって下ろしてしまったので、灯火をともしているその光が、襖障子の上から漏れているところに、光る君はそっと忍び寄りなさって、「見えるだろうか」とお思いになるのですが隙間がなく、仕方ないのでしばらく立ち聞きなさっていると、どうやら女たちは光る君の位置から近い母屋に集まっているようです。ひそひそ話していることをお聞きになっていると、どうやら光る君のことを話題にしているのでした。[29]

「とっても真面目ぶって、まだお若いのに高貴な奥様がいらっしゃるのはがっかりよね」
「でも、隙を見て通う女性があちこちにいるっていう噂よ」
などと話しているのを聞くにつけ、光る君は藤壺様のことがお心に浮かびなさって、たちまち心が乱れ、
「こんな機会に誰かが私の胸に秘めた恋を漏らして人に聞かれたら・・・」
などとお思いになるのでした。その後は大した話もなかったので、光る君は途中で立ち聞きをおやめになりました。式部卿の宮の姫君に朝顔に添えて詠み送った歌などを、少し実際とは違う風に話しているのも聞こえてきました。
「気楽な感じで歌でも口ずさむ雰囲気だな。やはり上流の女に比べたら見劣りがするだろうよ」
とお思いになっているのでした。
紀伊の守がやって来て、外を照らす灯籠の数を増やし、室内の灯火も明るくして、光る君にお菓子のようなものを差し上げます。
「帷帳の方はどうなっている?色事の方面がおろそかなようではがっかりな接待だろう」
とおっしゃると、
「どのような女性がよいかも承知しておりませんで」
と恐縮して控えているのでした。光る君は端の方にうたたねのような感じで横になりなさったので、みな静まりました。かわいらしい紀伊の守の子どもが何人か、中には宮中に出仕していて光る君が見慣れていらっしゃる子もおりました。伊予の介の子もおります。そのようにたくさんの子どもがいる中には、とても気品のある十二三歳くらいの男の子もございました。
光る君が
「どれが誰の子なんだ」
とお尋ねになると、
「この子は衛門の督の末っ子で、親もとてもかわいがっていたのですが、幼いころに親を亡くしまして、姉の縁によってこうしてここにおります。学才などもつきそうで、わりと良いものをもっているので童殿上をさせることも考えているのですが、すんなりとはいかないようです」
と申し上げます。[30

「かわいそうに。この子の姉がお前の義理の母親か?」
との光る君のお問いかけに、
「そうです」
と申し上げると、
「似つかわしくない母親を持ったものだな。我が父上もその評判を耳にして、『宮仕えに出仕させると申していたのはどうなったことか』と、いつだかおっしゃっていたぞ。世の中というのは分からないものだな」
と年よりじみたことをおっしゃいました。
「私としても思いがけないことでした。男と女というのはそういうことばかりです。今も昔も、世の中には決まり切っていることなどないものです。とりわけ、女の運命というのはの頼りなくて、しみじみさせられるものです」
などと申し上げました。
「伊予の介は大事にしているのか?丁重に丁重に扱って、つくしているのだろうな」
とお聞きになると、
「どうでしょうか。内々の主君と思っているように見えますが。しかし、私を始め、家の者は『いい年をしてこんなに若い妻なんて』と納得しておりません」
などと申します。
「そうは言っても、お前たちのような年相応で似つかわしいのに譲るつもりもないだろう。あの男はとても風流で気取ったところがあるからな」
などとお話しになりつつ、
「ところで、その女は今どこにいる?」
とお尋ねになると、
「みな下の屋に下げてしまいましたが。まだ下がれずに残っているかもしれません」
と申し上げました。人々はみな大いに酔って、縁側に横たわって寝静まっているのでした。[31

光る君はくつろいで寝ることができずに、まるで蛇の生殺しだなとお思いになると目も覚めて、北側の襖障子の向こうに人の気配がするのを、
「こっちか?さっきの話の女がいるのだろう。何とまあ」
とお気持ちがひかれて静かに起き上がり、立ち聞きなさると、先ほどの男の子の声で、
「ねえねえ、お姉様はどこにいらっしゃるの?」
とかすれたかわいらしい声で言うと、
「ここに寝ていますよ。光る君様はお休みになったの?どんなに近くにいらっしゃることか、と思ったけれど、意外とそうでもなかったわ」
声がしゃきっとしていないのは、今まで寝ていたのでしょう、男の子の声ととてもよく似通っているので、やはり姉だと思ってお聞きになっておりました。
「庇の間にお休みになりましたよ。噂に聞いた高貴なお姿を拝見しました。噂通り、本当に素晴らしかったなあ」
とひそひそ声で言います。
「昼だったら私もこっそり覗いて拝見したのに」
と眠たそうに言って、衣に顔を引き入れるようでした。
「おいおい、もっと何かあるだろう」
と光る君は少しがっかりなお気持ちになるのでした。
男の子は、
「僕はここに寝ますね。暗いなあ」
といって燈台を調整して明るくするようです。女君はこの東庇の襖障子の出入り口、光る君の御寝所とははす向かいのあたりに寝ているようでした。
「中将の君はどこ?人が近くにいないと少し怖いわ」
と女君が言ったようで、長押の近くに横になっていた女房たちでしょうか、
「下の屋におりて湯浴みをしています。すぐに戻るとのことでした」
と返事をしました。[32

みな寝静まっているようなので、掛け金を外して襖障子を開けてみようと光る君が試みなさったところ、なんと、向こう側からは掛け金をかけておりませんでした。几帳を入り口の所に立てて、灯火は薄暗く、唐櫃のようなものが置いてあり散らかっている中を、光る君は人がいる気配がする所まで分け入って進みなさると、一人とても小柄な女性が横になっています。
女君は人が入ってきた物音に、少しうっとうしく思っていましたが、光る君が顔までかぶっていた衣を払うまでは、湯浴みから戻ってくるのを待っていた中将の君だとばかり思っていたのでした。
「あなたが中将はどこかと私をお呼びになったのでやって参りました。人知れずあなたを恋い慕っていた、その思いがやっと通じたかと思って」
と光る君がおっしゃるのを、女君は何が何だか分からず、気が動転するばかりでした。恐ろしい夢にでもおそわれたような心地がして、「キャッ」と悲鳴をあげたのですが、光る君の衣の袖が口元を覆っていたせいで、声にもなりませんでした。
「軽々しい気持ちでこんなことを、と思っていらっしゃるのでしょう。それも当然かもしれませんが、長らくあなたを思い続けていた心の内をお伝えしたくて、このような機会が訪れるのを待っていたのですから、決して浅はかな気持ちではないどころか、前世でも結ばれていた深い縁があるものと思ってください」
と、とても優しくおっしゃる雰囲気は、荒々しく恐ろしい神でさえも穏やかにならざるを得ないようでしたから、女君も何とも言えず中途半端な心持ちで、「ここに人が」などと騒ぎたてることもできません。耐えがたい気持ちで、あり得ないことだと思うと、情けなくなってきて、
「あの・・・人違いではございませんか」
と、やっとの思いで言うのが精一杯でした。[33

気が遠くなりそうなほど動揺している様子はとても気の毒でありつつも、かわいい人だ、と御覧になって、
「人違いなどするはずもございません。心の赴くままこうして来たのに、はぐらかしなさるとは思いもよりませんでした。私は決して女たらしで浮気な性分からあなたにこのようなことをしているのではありませんよ。私の胸のうちを少しお話ししたいのです」
と言って、とても小柄な女君を抱きかかえて襖障子から出なさる時に、女君が頼りにして待ちわびていた中将の君がやっと湯浴みから戻って来ました。
「あ、ちょっと」
と光る君が声をおかけになると、中将の君は不審に思って声のする方に探り探り寄ってきました。すると、あふれんばかりの香の匂いが顔に覆いかかるように感じられたので、光る君の仕業だと思い至りました。中将の君はびっくりして、これはいったいどういうことかと当惑しましたが、相手が相手だけにどう申し上げたらいいのか分からずにいました。
普通の身分の方が相手であれば、手荒に引き裂けばよいのでしょうが、その場合ですら、大騒ぎになって多くの人に知られるわけにはいかないので対応は難しいでしょう。中将の君は焦って光る君を追ってきましたが、光る君は動じることなく奥のお部屋にお入りになってしまうのでした。襖障子を閉めて、
「夜明け前にこの女君をお迎えに来るように」
とおっしゃるので、女君は、中将の君がどう思っているだろうかと考えると、死にそうなほどつらくて、汗も流れてびっしょりになり、とても苦しそうでした。[34

光る君は、かわいそうな気もしたのですが、いったいどこからそのような言葉が生まれ出るのでしょうか、いつものように、しみじみ心を動かされるような甘い言葉を深い情愛をこめておっしゃるのですが、女君としては、やはりとても動揺したままで、
「信じられません。取るに足らない身とはいえ、私の名誉をお汚しになった、そのお心はどうして浅はかだと思わずにいられましょうか。本当に、私のような身分の者は、その身分に応じて生きているのですから・・・」
と言って、光る君が強引に迫りなさるのを、心底から情けなくつらいと思い込んでいる様子も実に憐れで、気が引けてしまうような雰囲気だったものですから、
「私は、その身分による違いというものをまだよく知らない未熟者なのですよ。あなたが私のことを平凡な連中と同じように思っていらっしゃるのは情けないことです。自然と私の噂を耳にすることもあるのでしょう。一方的で強引な恋愛など私はこれまで一度もしたことがないのに、こんなことになる宿命だったのでしょうか。このようにあなたから軽蔑されるのも本当にもっともな心の迷いを、自分自身でも不思議に思います」
などと、真面目になって色々とおっしゃるのですが、比類ない光る君のご様子を前にすると、いっそう深い関係を結ぶことが心苦しくて、
「頑固で気に入らないと思われるかもしれないけれど、そのようなつまらない女としてやり過ごそう」
と思って、ひたすらつれない態度を取るばかりでございました。[35

女君は、女性らしくおしとやかな人柄なのに無理をして強がっているので、細くしなやかな竹のような感じがして、光る君もさすがにおいそれと折ってしまうことはできそうにございません。腹立たしい気持ちで、強引すぎる光る君のやり方を、言いようもないほど憎んで泣く様子はとてもお気の毒でした。光る君は心苦しい気もしたのですが、「結ばれなかったら後悔するだろう」とお思いになりました。
女君が、慰めようもなく辛いことだと思っておりますと、
「どうしてそのように私をお嫌いになるのですか。思いがけないこのような出会いこそ、前世からの深い縁で結ばれていたのだと思ってくださいよ。世間知らずな様子でそんなに泣きじゃくっているのは、責められているようでとてもつらいのですが」
と光る君に恨みごとを言われまして、
「本当に、嫁ぐ前の身でこのようなお気持ちをかけていただいたなら、有頂天になって、いずれ正式に結ばれる時がくるかもしれないと思って気持ちを慰めたでしょうが。このように一時的な欲情で契りを結ぶようなことは、胸が張り裂けそうです。ですが、こうなってしまったからには仕方ありません、せめてこのことは口外なさらないでください」
と申し上げる女君でしたが、そのように思うのも本当にもっともなことでございました。
光る君は一生懸命になって、これからもずっと愛していこうと誓ってあれこれ慰めなさるようです。[36

一番鶏も鳴いて、朝が近づいてまいりました。
光る君の従者たちが起き出して、
「随分寝過ごしてしまったなあ」
「お車を用意せよ」
などと言い合っているようです。
紀伊の守も起きて来て、
「女の方違えではないのだから、夜も深い中をお急ぎになることはないでしょう」
などと言っております。光る君は、
「再びこのような機会が訪れることも、まあないだろう。わざわざ訪ねて行くというのも考えにくい。手紙を通わすのもとても無理なことだ」
とお思いになって、たいそう胸を痛めておりました。奥の部屋にいた中将の君も出てきて、とても心苦しそうなので、光る君は女君を放しておやりになったのですが、なお引き留めなさって、
「この先、どうやってあなたに手紙を届けたら良いだろう。またとないほどのあなたの冷淡さ、私の切なさ、たった一夜で様々な深い思い出ができたのは、世にも珍しい例でしょうね」
と言って目に涙を浮かべるお姿は、とても優艶でございました。鶏もしばしば鳴くのでせかされるような心地で、
つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
〔あなたの薄情さをまだ恨み足りていない明け方に、どうして鶏までもが慌ただしく私を起こそうとするのでしょうか〕
女君は、我が身の有様を思うと、やはり光る君のお相手として不釣り合いで恥ずかしい気がしますので、光る君の魅力的な口説き文句も心に響かず、普段、生真面目で意に沿わないと思って蔑んでいる夫・伊予の介のことばかりが思われて、「このことが夫の夢に見られてしまうのではないかしら」と考えると、背筋が冷たく、身が縮む思いをするのでした。
身の憂さを嘆くにあかであくる夜はとり重ねてぞ音も泣かれける
〔宿命的でつらい我が身を嘆いても嘆いても嘆き足りないまま明けていく夜には、鶏が鳴くのに重ねて私も声を上げて泣かずにはいられません〕[37

みるみるうちに空が明るくなっていくので、女君を襖障子のところまでお送りになりました。邸の中も外も人が立ち働いて騒がしいので、さっと襖障子を閉めてお別れになる時、寂しく切ない気持ちがして、まるでこの襖が二人を隔てる関所のように光る君には感じられるのでした。
直衣などをお召しになると、南側の手すりに寄りかかってしばらくぼんやりと庭を眺めていらっしゃいました。西側の部屋の女たちはせわしく格子を上げて、どうやら光る君のお姿を覗き見しているようでした。縁側の真ん中あたりに立ててある背の低い衝立の上から、わずかばかりお見えになっている光る君のお姿に、深く感動して胸を高鳴らせている浮ついた心があるようです。
有り明けの月が空に残り、光は弱まっているものの、くっきりと見えてかえって風情のある明け方の景色でした。空には何の心もありませんが、ただ見る人によって、優美にも寒々しくも見えるものでございます。
人には言えない光る君の胸のうちはとても苦しく、女君への取り次ぎを頼めそうな人さえいないものですから、何度もふり返っては、未練を残したままこの紀伊の守の邸を出てお行きになりました。
光る君はお邸にお帰りになってもすぐに眠ることなどお出来にならず、女君に会う手立てがないことや、それにもまして、女君の心のうちはどうだろうかと想像なさると、心苦しくなるのでした。
「あの人は特別優れている所があるわけではないけれど、見た目も悪くないし、きちんと取り繕っていて、まさに中流階級の女性であったな。さすがに女性を知り尽くした左馬の頭、彼の言うことは本当だった」
とあれこれ考えあわせておいででした。[38

最近の光る君は大臣邸にばかりいらっしゃいます。あれきりまったく連絡もしないので、女君の心の内はどれほど苦しいだろうかと気に掛かって気の毒で、思い悩んだ結果、紀伊の守をお呼び出しになりました。
「例の亡き中納言の子を私にくれないか。かわいらしかったから、そばに置きたいと思って。童殿上させたいと言っていたが、それも私が手配しよう」
とおっしゃると、
「非常に畏れ多いことでございます。あの子の姉にお話しになるのがよいでしょう」
と紀伊の守がお返事申し上げるのにつけても、光る君は胸が苦しくおなりになりましたが、
「その姉というのは、お前の義理の弟を生んでいたりはしないのか」
「いえ、そのようなものはおりません。この二年ほど、我が父の後妻の座についておりますが、実の父親の意向と違うと嘆いて、気が滅入っているようだと聞いております」
「かわいそうに。なかなか評判の良い女性だけどね。本当に評判通りかな?」
とお尋ねになると、
「悪くはないでしょう。ただ、世の慣習に従ってよそよそしくしていますので、よく存じません」
と申し上げました。
それから五、六日して、紀伊の守はその男の子を光る君のところにお連れしました。この子は繊細で心惹かれるというわけではございませんが、上品な感じがして貴人らしく見えました。光る君はこの子を呼び入れると、たいそう親しみやすい雰囲気でお話しなさいました。すると、子ども心にとても素晴らしく嬉しいことだと思うのでした。光る君は姉のことについても尋ね、詳しくお聞きになります。答えられる範囲でお答えする様子は気が引けるほど落ち着いているので、光る君も女君のことを言い出しにくく思っておいででしたが、とても巧みに話して聞かせなさいました。[39

自分を呼んだのはこういうわけだったのだな、とうっすら分かってくると、意外なことだとは思いましたが、子ども心に遠慮して深く穿鑿はせずに、光る君のお手紙を姉のもとに持ってきたので、女君は驚きあきれて涙がこぼれるのでした。幼い弟の心の中を想像するときまりが悪くて、顔を隠すようにお手紙を広げました。するとそこには色々と言葉数多く書いてあって、
見し夢をあふ夜ありやと嘆くまに目さへあはでぞ頃も経にける
〔あなたとの夢のような一夜の後、またあなたと結ばれる夜が訪れるのではないかと嘆くうちに、まぶたを閉じることもできないまま時が過ぎていくことですよ〕
あれ以来、夜も眠れなくて」
あまりに素晴らしくて目が離せないほどの書きぶりに、女君はかえって涙で目もふさがり、受け入れたくないほど残念な自分の運命を思い続けて横におなりになりました。
次の日、光る君が弟の小君をお呼びになったので、小君は参上するにあたって姉に手紙のお返事を求めました。
「このようなお手紙を受け取るべき人はおりません、と光る君にお伝えしなさい」
とおっしゃると、小君はにこにこして、
「お姉様宛てだと光る君ははっきりおっしゃったのに。そんな風に申し上げることはできません」
と言うので、女君はいたたまれない気持ちがして、
「あの方は私とのことをすっかり弟にお話しになってしまったのだわ」
と思うとこの上なくつらい気持ちになりました。
「こら、ませたことを言うものではありません。いいわ、それならもう光る君の所に伺ってはいけません」
と女君がすねてそのように言うと、小君は、
「お呼びになっているのだから行きますよ」
といって光る君のお邸に参上しました。
紀伊の守も密かにこの若く美しい継母のをもったいないと思い、何かと気を引きたかったので、小君のことをかわいがってあちこちに連れ回しておりました。[40

光る君は小君を近くにおよびになって、
「昨日、一日中待っていたのに。どうやらお前は私のことをそんなに真剣に思ってくれていないらしい」
と恨み言をおっしゃると、小君はただ顔を赤らめておりました。
「女君の返事は?」
と光る君がおっしゃると、小君は、「実は・・・」と事情を申し上げました。
「おいおい、それじゃあ仕方ないじゃないか。情けないなあ」
といって、またお手紙をお託しになるのでした。
「お前は知らないだろうね。私は伊予の爺さんよりもよりも前からあの人と結ばれていたんだよ。だけど、あの人は頼りなくか細いといって、あのような野暮ったい男と結婚して私を馬鹿にしているようなんだ。それでもお前は私の子となったつもりでいてくれよ。あの伊予の介は老い先長くないだろうからね」
とおっしゃると、「そんなことがあったのか。凄い話だなあ」と小君が真に受けているのを、光る君はおかしくお思いになりました。光る君はこの子をいつもそばに置いて内裏に参上するときにも連れていらっしゃるのでした。ご自分の衣装係にお命じになって小君の衣装を仕立てさせるなど、まるで本当の親のようでいらっしゃいました。女君へのお手紙はいつもお持たせなさいます。
しかし女君は、弟はとても幼いし、思いがけず手紙を落っことしでもしたら、尻の軽い女だという評判までまとわりついてしまうことを意に染まなく思うので、
「どんなに素晴らしいことでも、すべては自分の身の上次第なのだわ」
と思って、色よいお返事はいたしません。わずかに見た光る君の素晴らしい御容姿は本当に並大抵ではないと、思い出として残ってはいましたが、興味を示したところでどうなるものでもないと気持ちを押しとどめるのでした。
一方の光る君は、片時も心から離れることなく、心苦しくもまた恋しくもお思いになり、思い詰めていた女君の心の内を思うと気の毒で、ずっとお心にかかっていらっしゃいました。軽々しく、こっそりと忍び込むのも、人目の多い所でもあるし、そのような背徳的な行為が露見したら自分ばかりでなく相手にとってもすまないことだと思い悩んでいらっしゃいます。[41

例によって、光る君が内裏で寝泊まりを続けなさるうちに、待ちに待った都合の良い方違えが巡ってきたので、急遽退出して大臣邸へ参上なさるように見せかけて、紀伊の守邸を訪問なさいました。紀伊の守は驚き、増設した遣り水が光る君のお気に召したのだと思って恐縮しつつ喜んでいます。
実は、昼ごろ光る君はこのような計画であると小君にはお話しになり、訪問する約束をなさっていたのです。いつも小君をそばに置いて手なずけていらっしゃったので、その夜もまずは小君をお呼びになりました。
女君にもお手紙がありました。光る君が計略をめぐらすのも、浅い気持ちからではないだろうと女君も思うのですが、
「だからといって心を許して、人並みでもないと自覚している姿を光る君にお見せするのは無益なことだし、あの夢のような過ちを嘆きながら過ごしてきたのに、性懲りもなくまた同じ過ちを犯すわけには・・・」
と思い乱れて、やはりこうして光る君を待ち迎え申し上げるのはみっともないことだと思い、小君が出て行った隙に、
「御客人に近すぎて気恥ずかしいわ。ちょっと体もだるいし、肩や腰を叩いてもらうのには離れた方が良いわね」
といって、渡り廊下にある、中将という女房の部屋に移ってしまいました。
光る君は女君と夜を過ごすつもりで、人を早くに寝かして、お手紙を小君に持たせなさいましたが、小君はなかなか女君を探し当てることができません。家中を探し回って渡り廊下に入り、ようやくたどり着きました。
「光る君はどんなに僕のことを役立たずだとお思いになるだろう」
と今にも泣きそうに言うので、
「こんな風に生意気なことをするものじゃありません。子どもがこのような使いをすることは厳しく慎むべきなのに」
と脅して、
「私は具合が悪いから女房たちに体を揉ませていると申し伝えなさい。お前がこんな所にいたら誰もが怪しむでしょう。早く行きなさい」
と言い放つと、心の中では、
「本当に、このような身の上でなく、今は亡き父の思い出が残る実家にいて、たまにでも光る君が来てくださるのをお待ちするというのであれば、どんなにか楽しいだろうに。自分の気持ちを無理にごまかして、思いが通じていないように見せているけれど、光る君はどんなにか私のことを思い上がった女だとお思いになることだろう」
と、自分の心ながら胸が痛く、思い乱れておりました。
「とにかく、どうしようもない運命なのだから無風流で気にくわない女として終わろう」
とすっかり心に決めたのでした。[42

光る君は、ちゃんと姉を調略しているだろうか、と心配しながら横になって幼い弟をお待ちになっていましたが、そこに小君が戻ってきて、自分が役に立たなかったことを申し上げますと、
「これは驚いた。お前の姉は世にも珍しいほど固い貞節の持ち主だね。何だか自分が気恥ずかしくなってきたよ」
と、たいそうお気の毒なご様子で、その後しばらくは何もおっしゃらず、ため息ばかりついて、つらいことだと思っていらっしゃるのでした。
帚木の心を知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな
〔遠くからは見えるが近づくと見えなくなるという、園原に生える帚木のように、情があるかと見せかけておいて冷淡なあなたの心を、そうだとは知らずに空しい恋路に迷い込んでしまったことです〕
申し上げようのないことです」
と御文をお書きになりました。女君もさすがに寝られずにいたので、
数ならぬふせ屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木
〔取るに足りない粗末な家に住まう情けない私は、園原の伏屋に生えるという帚木のように、見えても触れることのできないものとしてあなたの前から姿を消すのです〕
と返歌を申し上げました。小君には光る君のことがとても気の毒に感じられて、眠気もどこへやら、せっせと文使いの役を果たしておりましたが、そのことについても女君は、人が不審に思うだろうと困惑なさるのでした。
例によって光る君の従者たちはぐっすり寝込んでいましたが、光る君お一人だけは、ただただ空しいお気持ちにとらわれなさっておりました。
「またとないあの人の強情さが、消えるどころかますますはっきりと見えていることだ」と癪に障りつつ、その一方で、
「このような人だからこそかえって心が惹かれてならないよ」とお思いになるのですが、女君が驚くほどにつれない態度なものですから、もういい、と一度はお思いになったものの、そう簡単にはお諦めにもなれず、
「やっぱりあの人の所に連れていってくれ」
と小君におっしゃいましたが、
「とても面倒なところに籠もっていて、女房たちもたくさんそばにいるみたいで、申し訳ありません」
と申し上げました。小君は光る君に同情しているようでした。
「ではしかたあるまい、お前だけは私を見捨てないでくれよ」
とおっしゃって、近くにお寝かせになりました。若々しくて心惹かれるご様子の光る君の近くにいられることを小君は嬉しく素晴らしいことだと思っているので、光る君は冷たい女君よりも、かえってこの素直な弟のことをかわいくお思いになったそうでございます。[43

 

桐壺][空蝉

 

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