光る君はお眠りになることができないままに、
「私はこんな風に人から嫌われたことが今までなかった。今夜、女との関係で生まれて初めてつらい気持ちを味わったものだから、いたたまれなくて、もう生きているのさえ嫌になってきたよ」
などとおっしゃるので、小君は横になりながら涙までこぼしておりました。その様子を、光る君はかわいらしいものだとお思いになっています。手を伸ばして優しく小君を撫でると、細くて小さい体つきや、それほど長くは伸ばしていない髪などがあの夜の女君の感じとよく似ているように思えるのは、気のせいかもしれないのですが、そのような点からも、小君のことを愛おしく思うのでした。
「無理に関係を持とうとしてうろうろしながら女の寝所に行くのもみっともないし、本当に癪なことだ」
とお思いになりつつ夜を明かし、いつものようには小君を近くに置いて何かをおっしゃるようなこともございません。
夜更けのうちにお帰りになるので、小君はとてもお気の毒でもあり、もの足りないことだと思っています。女君も、並々ならず心苦しいと思うのですが、その後は光る君からのお手紙もすっかり途絶えておりました。とうとう懲りてしまわれたのだ、と思うにつけても、
「このまま平然と私をお捨てになったら残念なことだわ。といって、強引すぎる困った御振る舞いが続くのも嫌だし。良い頃合いでこうして終わりにした方がいいのよ」
とは思うものの、ぼんやりと沈みがちに過ごしているのでした。[1]
光る君は、気にくわないとお思いになりながら、このままでは終われないと女君のことが心にかかり、みっともなく思い悩みなさって、小君に、
「お前の姉の仕打ちを、非常につらく、また腹立たしく思って、何とか忘れようとは思うのだが、どうにも忘れられずに苦しくて仕方ないから、しかるべき折を見て会えるように取りはからってくれ」
と何度もおっしゃるので、小君は面倒なことだとも思ったのですが、このようなことであっても光る君がお言葉をかけてくださり、そばにいられることを嬉しく思うのでした。小君は幼い心ながら、どのような機会に光る君の頼みを叶えられるだろうかと待ち続けていると、紀伊の守が任国に出かけていき、女ばかりがくつろいでいる絶好の機会が訪れたので、人目につかない夕暮れに、自分の車で光る君をお連れ申し上げました。
「まだ幼いこの子に任せて、果たしてどうなることやら」
とお思いになりましたが、それしきの不安でお気持ちを抑えることなどできるはずもないので、目立たない格好に身支度し、門などに鍵をかけてしまわないうちに、と急いでお出かけになったのでした。
小君は人目につかない方から車を引き入れて光る君を降ろして差し上げました。こどもなので、家の者たちも気を遣って出迎えなどをしないのがかえって好都合でした。母屋の東の妻戸に光る君をお待たせすると、小君は南の隅の間から格子を叩いて大声を上げて戸を開けさせ中に入りました。
中にいた女房達が、
「丸見えだから早く閉めなさい」
と言うようです。
「どうしてこんなに暑いのに格子を下ろしているの?」
と小君が尋ねると、
「昼から西の対のお方がお越しになって碁を打っていらっしゃるのです」
と答えるのでした。[2]
光る君は、
「それなら向かい合わせに座っている所を見たいな」
と思ってそっと歩き出すと、小君が鍵を外してくれた妻戸を開け、扉と簾の隙間へと入り込みなさいました。小君が入っていった部屋の格子はまだ閉めておらずに隙間が見えたので、近寄って西の方に向かって覗きこみなさると、格子の近くに立ててある屏風も端の方が畳まれていて、人目を遮るべき几帳も、暑かったせいでしょう、風が通るように垂れ布をまくり上げていたので、室内をとても良く見通すことができるのでした。灯火は近くにともしておりました。
「母屋の真ん中の柱近くにいるのが私の思い人であろう」
とまずは女君に目をとめなさいました。女君は色濃い絹織物を数枚重ね着して、その上に何かを羽織り、すっきりとした頭の形をした小柄な女性が、どうということもない平凡な恰好をしておりました。顔も、向かい合っている人にさえ見られまいとしています。非常にほっそりとしている手はなるべく袖の内に隠そうとしているようでした。
もう一人の女性は東向きに座っていて、何もかもが光る君に見えました。単衣の薄い絹の服を重ね着して、二藍色の小袿のようなものを人目も気にせず着崩して、紅色の袴の腰紐を結んでいるあたりまで襟がはだけていて、品がない感じがします。肌はとても白く美しい感じで、ふっくらと肉付きがよくて背も高く、頭の形、前髪のかかった額は何ともあざやかな感じで、目元や口元はとても魅力的で美しい顔立ちでした。髪の毛はとても多くて、長さはそれほどでもありませんでしたが、肩の辺りに垂れている様子はとても美しく、全体的に欠点がなく美人であるように見えておりました。[3]
光る君は、
「なるほど、親は格別だと思っているだろうな」
と興味深く見ていらっしゃるうちに、ふと、
「この上におしとやかな雰囲気を加えたいものだ」
と思われるのでした。
この女は才覚がないわけでもないのでしょう、対局が終わってから、駄目を埋めていく様子に利発さが見えつつ、大きく騒ぎたてるので、奥に座る女君が静かに落ち着かせて、
「お待ちなさいな。そこはセキでしょう。このあたりの劫を先に数えましょうよ」
などと言うのですが、
「あーあ、今回は負けてしまいましたわ。隅の方も数えなくては。どれどれ」
と、指折り十、二十、三十、四十、とてきぱき数えるところを見ると、湯桁の数が多い伊予の道後温泉も楽々と数えきってしまいそうに思われるほどでした。それにしてもやはり品性は少し欠けているようです。
一方の女君は相変わらず袖で口元を覆い隠して、顔をはっきりと見せないのですが、じっと目を離さずにいると、横顔が何となく見えてくるのでした。眼は少し腫れているようで、鼻筋も綺麗だというほどではなく、いかにも年増な感じがして、とりたてて美しいところもないようです。どちらかと言えば不美人な容貌を、とてもよく取り繕っている様子は、容貌では勝っている向かいの人よりも、内面では優れているのだろう、と目をとめずにいられません。
向かいの人は華やかな魅力を持ち、美しい容貌を、ますます誇らしく惜しげもなく見せつけるかのように振る舞い、ふざけて笑っているので、美しいところもよく見えて、そういう系統の女性として、とても興味を惹くものがあるのもまた事実でした。[4]
軽そうな女だとはお思いになりながら、光る君は光る君で不真面目なお心をお持ちでしたので、この女のことも深く心にとどめなさるのでした。これまでにご覧になってきた女性たちは片時もくつろいだ姿を見せることなどなく、いつもきちんとしていたので、横顔くらいはご覧になったことがありましたが、このようにくつろいだ女の姿を覗き見するなど、初めてのことでいらっしゃったので、油断してこのようにまじまじと見られているのはかわいそうな気もしましたが、しばらく御覧になっていたいという思いで覗き見ていらっしゃると、小君が出てくる気配がしたので、光る君は静かにそこをお離れになり、渡り廊下の戸口に寄りかかってお立ちになりました。
小君は、光る君をそのようにお待たせしたことをとても畏れ多いことだと思いつつ言いました。
「予想外な人が来ていまして、姉に近寄ることさえできません」
「そうやって今夜も私を空しく帰そうというのか。驚いたな。とても惨めな思いだ」
とおっしゃると、
「どうしてそんなことになりましょうか。あの人が向こうへと帰りましたら、作戦を立てましょう」
と申し上げました。
「本当に姉の気持ちを私に靡かせられそうな感じなのだろう。子どもではあるけれど、人の心を読むことができて、落ち着いているから」
とお思いになるのでした。もう碁は打ち終えたのでしょう、ざわつきながらお付きの女房たちが散り散りに別れていく気配がするようです。[5]
「弟君はどこにいらっしゃるのでしょう」
「ここの格子は閉めてしまいましょう」
といって、格子を閉める音がするようでした。
光る君は、
「静かになったようだ。では、中に入って上手くやってくれ」
と小君におっしゃいました。しかし、女君の心は動きそうにもなく、身持ちが堅いので、小君としても相談などできるわけもなくて、人が少ない時に光る君をお入れしてしまおう、と思っているにすぎないのでした。
「紀伊の守の妹もここにいるのか?それも覗き見させてくれよ」
とおっしゃいましたが、
「それは無理でしょう。格子のそばに几帳が立ててあるんですから」
とお答えしました。
「それはそうだろうけど、あの軽い感じなら何とかなるだろう」
とおかしくお思いになるのですが、
「既に見たことは知らせずにおこう。さすがに女がかわいそうだ」
とお思いになって、夜が深くなってくることのじれったさをおっしゃるにとどめる光る君でございました。小君は、今回は妻戸を叩いて中に入ります。人々は皆寝静まっておりました。
「僕はこの襖のあたりに寝よう。涼しい風が吹けよ」
といって、薄縁を広げて横になりました。女たちは東廂に大勢寝ているようです。妻戸を開けてくれた子も東廂に入って寝てしまったので、小君はしばらく寝たふりをした後、灯火の明るい方に屏風を広げて明るさを抑えてから光る君をそっと静かに中へお入れしました。[6]
「どうなるかな。またばかばかしいことにならなければいいが」
とお思いになるにつけ、とても気が引けるのですが、小君に導かれるまま、母屋の几帳の垂れ布を引き上げ、音を立てないようとても慎重に中へお入りになります。みな寝静まっていたので、柔らかいお召し物の衣擦れの音がたいそう響いてやっかいでした。
一方の女君は、光る君が自分のことをお忘れになったものと思い込み、喜んでいましたが、先だっての、夢のように不可解なことが心から離れず、安心して眠ることができずにいるのでした。女君は、昼はぼんやりと物思いに耽り、夜は寝覚めがちなので、目も休まる時がなく嘆かわしいのですが、この夜は、先ほどまで碁の相手だった方が、
「今夜はこちらにおじゃましますわ」
と言って、今めかしく女君と語り合って寝ていたのでした。この若い女は、何の悩みもなく、とてもぐっすりと眠っているのでしょう。
そこへ、ふいにとても良い香りが漂ってきたので、女君はハッとして頭をもたげました。すると、暗い中、几帳の薄い垂れ布の隙間に、人が近づいてくる明らかな気配がありました。女君は驚きのあまり混乱して、慌てて起き上がると絹の単衣だけを羽織ってそっと部屋を抜け出すのでした。[7]
光る君は母屋の内に侵入なさり、女が一人で寝ているのを見て心やすくお思いになりました。一段低い廂の間に女房が二人ばかり寝ています。女の着物を払いのけて近づいてみると、記憶より大柄な気もしましたが、まさか別の女だとは思いも寄りません。しかし、こんなにされてもぐっすり眠っているというのは明らかにおかしいので、だんだん別人だとお分かりになって、驚くと同時に腹立たしいのですが、
「人違いでうろたえた所を見られるのはみっともないし、女もおかしく思うだろう。今から目当ての人を尋ね当てるのも、こんな風に逃げる心があるみたいだから、きっと無駄に終わり、愚かな男だと思われるだけだろう」
とお思いになりました。また、
「あの魅力的な女ならば、それはそれで良い」
ともお思いになったのは、浅はかだと言わざるを得ませんね。
女はようやく目が覚めると、たいそう思いがけないことに驚き、呆然としているようでしたが、これといった思慮深さもなく、気の毒な気もしませんでした。男と女というものを分かっていない割には、恋の風情を知っているかのようで、女々しくうろたえたりもしません。光る君は「自分の素性は明かすまい」とお思いになりましたが、何かの拍子に事情が知れてしまったら、自分自身にとってはどうということもないのですが、あの頑固なまでに世間体を気にしている女君はさすがにかわいそうなので、方違えにかこつけて度々ここを訪れたのはあなたとこうなるためだったのだと、言葉巧みにおっしゃるのでした。
思慮深い人ならば本当の所が分かるのでしょうが、この女はまたとても若く、ませているようではありますが、そのような深い所までは考えが及びません。光る君は、この女に対して、嫌いではないものの、お心にとまりそうな点もない気がして、やはりあの小癪な女君のことで頭がいっぱいといった感じでいらっしゃいます。
「どこに隠れて、私のことを愚か者だと思っていることだろう。ここまで意固地な女というのも珍しいことだ」
とお思いになるにつけ、ますます忘れがたく思い出されてくるのでした。しかし、無邪気で若々しいこの目の前の女の雰囲気もしみじみ心を惹かれるので、いかにも情愛が深い風に、将来についてお約束をなさいました。[8]
「世間で公認の恋よりも、このような関係の方が愛が深まるものだと、昔の人も言ったものです。私のことを愛してくださいよ。私は自由に行動することが難しい身の上だから、心のままにこちらへ来ることができずにいたのです。しかし、あなたの親も、この恋を許さないだろうと思うと、今から胸が痛みます。それでも、私のことを忘れずに待っていてくださいね」
などと、陳腐なことをおっしゃいました。すると、女は、
「人がどう思うか、それを考えると気恥ずかしくて私からはお手紙も差し上げられません」
と素直な気持ちを言いました。
「このことを広く人に知らせるのはまずいが、私からはここの殿上童をしている小君を通して手紙をお届けしよう。あなたは悟られないよう、何気なく振る舞ってください」
などと言い残して、あの逃げた女君がそっと脱ぎ捨てた薄衣を取って光る君は出て行きなさいました。近くに小君が寝ていたのを起こしなさると、成功するかどうか、心配しながら寝ていたのですぐに起きました。
妻戸をそっと押し開けると、年配の女房の声で、
「そこにいるのは誰?」
と大袈裟に尋ねかけてきました。うっとうしく思いつつ、小君が「僕ですよ」と返事をします。
「どうしてこんな夜中にあなたはお出かけになろうとしているのですか」
と、いかにも分別があるように言って、こちらにやって来ました。小君はとても憎らしく思って、
「何でもないよ。ちょっと出るだけ」
と言って、光る君を渡り廊下に押し出し申し上げましたが、夜明け前の月が明るく照らして、ふと人影が見えたものですから、
「もう一人いらっしゃるのはどなた?」
と尋ねてきました。しかし、どうやら早合点したようで、
「ああ、民部さんのようですね。なんとも高い背丈ですこと」
と一人で解決してしまいました。背が高く、いつも笑われている女房がいたらしく、その人と勘違いしたようでした。[9]
この年配の女房は、小君がその民部という女房を連れて歩いているのだと思って、
「じきに大きくなって同じくらいの背丈におなりになるでしょうね」
と言いながら出てきます。困りましたが、押し戻すこともできず、渡り廊下の入り口の扉にぴったりと寄りそって身を潜めていた光る君に、この女房は近寄ってきて、
「あなたは今夜は寝殿に控えていらしたのね。私は一昨日からお腹を壊してどうにもならないから、控えの間にいたのですが、側仕えの人が少ないといって召し出されたので夜になって参上したのですが。でもやはり堪えがたくて・・・」
と苦しそうで、返事も聞かずに、
「ああ、お腹が、お腹が痛い。また後で」
と言って過ぎ去っていった隙に、光る君はかろうじて外へと出なさいました。やはりこうした出歩きは軽率で危険だ、と懲り懲りなさったことでしょう。
小君をお車の後ろに乗せて、光る君は二条にある自邸にお戻りになりました。昨夜のできごとを小君にお話しなさり、
「やはりお前はまだ子どもだな」
と小君をお咎めになって、また、あの女君のつれない心を、爪弾きをしながら恨めしく思っていらっしゃいました。小君は、気の毒に思って何も申し上げません。
「私をとても嫌っていらっしゃるようだから、我ながら自分がすっかり嫌になってしまった。どうして会ってくれないにしても、親しく返事くらいはしてくださらないのだろう。自分が伊予の介に劣っているとは悲しいことだ」
などと、気に入らない気持ちに任せておっしゃると、持ってきた女君の小袿を下に敷いてお休みになりました。小君を前に寝かせ、あれこれと恨んでみたり、話したりなさいます。
「おまえはかわいいけれど、あの薄情な人の弟だと思うと、いつまでもかわいがってやれるか分からないな」
と真面目におっしゃるので、とても切ない気持ちになる小君でございました。[10]
光る君はしばらく横になっていらっしゃいましたが、お眠りになれずにいました。そこで、硯をお取り寄せになり、きちんとしたお手紙という風ではなく、ただの手習いのように気ままにお書きになりました。
空蝉の身をかへてける木の下に猶人がらのなつかしきかな
〔脱皮をした蝉が木の下に抜け殻を残すように、上着だけを残して姿を消してしまったあなたですが、その人柄にやはり心が惹かれてなりません〕
とお書きになった手紙を、小君は懐にしまって持ち帰りました。
「もう一人の女も、私をどう思っているだろう」
と気の毒な気はしましたが、色々と考えあわせた結果、そちらには手紙をお書きになりませんでした。例の薄い小袿は、慕わしい残り香が染み込んでいるので、光る君は身近に置いて見ていらっしゃるのでした。
小君が邸に行き着くと、姉君は待ち迎えて、厳しくおっしゃいました。
「呆れた。表向きはどうにかごまかしても、人があれこれ推測するのは避けられないのに、本当に馬鹿げたことです。お前の幼稚さを、光る君様もどう思っていらっしゃることかしらね」
といって、恥じ入らせなさいます。
板挟みにあった小君は苦しい立場ですが、光る君の手紙を取り出しました。さすがにそれを打ち捨てるわけにもいかず、女君は受け取ってお読みになります。
あの脱ぎ捨てた着物は、どうだろう、汗臭かったりはしないだろうか、などと思うと、たまらない気持ちになり、様々に心が乱れておりました。
西の対の女君も、気恥ずかしく思いながら自分の部屋へとお帰りになりました。この件に関しては他の誰も知らないことなので、人知れず物思いに沈んでおりました。小君が部屋の前を通りかかると、期待に胸が膨らむのですが、光る君からのお手紙はありません。騙されたのだと気づくわけもないとはいえ、脳天気な心の内にもさすがにもの悲しい気持ちがしたことでしょう。
つれない女君も、気落ちしていましたが、軽いお気持ちでもなさそうだったことを思うと、独り身だったならば、と我が身を恨んでみてもどうなるわけもないのですが、光る君を恋しく思う気持ちはどうにもこらえきれず、贈られてきた懐紙の端にこう書き記すのでした。
空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびに濡るる袖かな
〔蝉の抜け殻の羽根におりた露が木蔭にかくれて見えないように、私も密かに涙を流し、袖を濡らしていることです〕
[11]