一般的に、敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」があるとされています。
このうち、今回は謙譲語について考えてみます。
現代語の謙譲表現というのは「へりくだることによって相対的に相手を敬うことになる」表現です。
そもそも「謙」という字は「へりくだ-る」とも読み、「譲」は言うまでもなく「ゆず-る」とも読みます。
従って、ネーミングと役割が一致していると言えるでしょう。
具体的には、例えば「見る」に対して、「拝見する/見せていただく」が謙譲表現です。
現代語で謙譲語というのは主語が一人称(=私)の時に使われることが非常に多くなります。
新幹線で乗務員が「乗車券を拝見します」というのは、
「見る」という動作をする乗務員(=私)がへりくだることによって、乗客を敬っているわけですね。
この「謙譲語」というネーミングを古典文法にも当てはめるから混乱が生じるんです。┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ
もう一般的にそうなっているので、自分も授業で「謙譲語」と教えていますが、本当は嫌なんです。
古典において「謙譲語」という言い方がどうして不都合なのか、というと、例えばこんな文を見てください。
源氏になし奉るべく思しおきてたり。(源氏物語)
=天皇は皇子を(臣籍にくだして)源氏にして差し上げようとお心に決めていらっしゃる。
幼い若宮(後の光源氏)を、皇位継承争いに巻き込まないため、皇位継承権を失わせて臣下にしようと天皇が決心していることが述べられている部分で、青文字(奉る)が謙譲語と呼ばれているものです。
まさか天皇を下に見るなどということはありえないので、誰もへりくだってないですよね?
古典文法で一般的に謙譲表現と呼ばれているものは「客体尊敬」とも呼ぶことができます。
古文で謙譲表現が用いられるのは、英語でいう「第4文型/第5文型」が代表的なケースです。
He teaches her English.
=彼は彼女に英語を教える。
She makes him happy.
=彼女は彼を幸せにする。
この「her」や「him」を英文法では一般的に目的語と言いますが、国文法では「客体」とも呼びます。
教える人/幸せにする人=主体、教えられる人/幸せにされる人=客体、というわけです。
この客体が高貴な人物であれば、もちろん敬わなければなりません。
先に挙げた古文の例に戻すと、
天皇が皇子を源氏にする
なので、「源氏にする人=天皇=主体、源氏にされる人=皇子=客体」ですね。
この皇子という高貴な人物(客体)を敬うために使われているのが「奉る」という敬語動詞です。
ですから、こういう敬語の働きを「客体尊敬」と呼ぶとスッキリするわけです。
誰もへりくだっていない状況で謙譲語と呼ぶのは・・・ね。
しかしまあ、便宜上これはもう「謙譲語」と呼び、
「現代の謙譲語と古文の謙譲語は違うんだ」と言っておくしかないようです。┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ
そうそう、現代語の謙譲語とよく似た働きを持つ古語がひとつだけあります。
それは「たまふ」という動詞です。
見る目の情けをば、え頼むまじく思うたまへてはべる。(源氏物語)
=うわべの愛情をあてにすることはできないだろうと思っております。
「たまふ」は四段活用の時には尊敬語、下二段活用の時には謙譲語となります。
この単語が用いられるときは、主語が一人称で、へりくだった表現となり、話し相手を敬うことになります。
上の例文では、話しているのが左馬の頭、話し相手が光源氏や頭中将という目上の人物です。
左馬の頭がへりくだって自分を下に置くことにより、光源氏や頭中将らを敬っている表現なのです。
ちゃんちゃん。L(´▽`L)♪
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