「私が以前から何度も申し出ている件について、どうして気兼ねなさっているのでしょう。
あの幼い姫君に心惹かれてしみじみ愛しく思われるのも、特別な運命で結ばれているためだと思われてなりません。
やはり直接私の思いをお伝えしたいものです。
葦わかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは
〔幼い姫君と対面することは難しいにしても、和歌の浦に打ち寄せては帰る波のようにこのまま帰るつもりはございません〕
あまりにひどい話です」
と申し上げると、
「本当に畏れ多いことです。
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる
〔和歌の浦に浮かぶ玉藻が打ち寄せる波に漂うように、光る君様の本心も分からないままそのお言葉に従うというのは心許ないことです〕
強引な気がいたします」
と申し上げる様子が少し物慣れた感じなのでこれ以上責めるのはおやめになりました。
「なぞ越えざらん」
と口ずさみなさるのが、年若い女房たちの心には深く染み入るのでした。
紫の君は、亡くなった尼君を恋い慕って、突っ伏して泣いていらっしゃったのですが、
遊び相手になっていた子が、
「直衣を着た人がいらっしゃっていますわ。父宮様がお越しになったみたいです」
と申し上げると、紫の君は起き上がりなさって、
「少納言、直衣を着ていらっしゃる方というのはどちらに?父宮がいらしているのですか?」
と言いながら少納言に近寄ってくる御声は非常にかわいらしくございます。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
和歌の贈答が一対出てきました。
和歌の浦は和歌山県の海岸です。
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴たづ鳴き渡る
という『万葉集』に収録されている山部赤人やまべのあかひとの歌が有名です。
うちのテキストにも使われています。
和歌の浦には、その名にちなんで和歌の神様が祀られている玉津島神社があります。
この歌にもあるとおり、葦が生えていたようです。
そして光源氏の歌には「葦わか」と出てきますが、これは文字通り「若い葦」のことで、幼い紫の君を暗示した表現でして、「葦わかの浦」には「若/和歌」が掛けられています。
尼君が存命の時と変わって、姫君を光源氏に預けても良いような雰囲気が少し出てきました。
まあ、周知の通り、いずれ紫の上として光源氏の最愛の妻になるわけですからね。笑
最後に、光源氏の「なぞ越えざらん」について。
こういう短いセリフはだいたい引き歌(有名な歌の一部を引用すること)なのですが、これは、
人知れぬ身は急げども年を経てなぞ越え難き逢坂の関
〔私は人知れず急ぎ焦っているのですが、何年経っても、どうして逢坂の関を越えるようには、あなたと男女の一線を越えて親密な関係になれないのでしょうか〕
という、『後撰和歌集』に選ばれている藤原伊尹ふじわらのこれただ(これまさ)の歌を引用したものと言われています。
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