有名な話かも知れません。
『沙石集』は面白い話がたくさんありますが、正月くらいいい話を。
【現代語訳】
近ごろ、海外から帰ってきた僧侶の話としてある人が語ったこと。
中国に身分の低い夫婦がいて、餅を売って生計を立てていた。
その夫が、道ばたで餅を売っていたところ、誰かが袋を落としたのを見つけた。
中には上質な銀が六つ入っていたが、それを家に持ち帰った。
妻は欲のない、心が真っ直ぐな人で、
「私たちは商売をして生きていて、生活に不足もありません。
この持ち主はどれほど嘆いていることでしょう。気の毒なことです。
持ち主をさがしてお返しください」と言ったので、夫もその通りだと思い、広く触れ回って歩いたところ、
持ち主を名乗る男が現れて、これを手にすると、あまりの嬉しさに、
「お礼に銀を三つさしあげましょう」
と言って分け与えることに決まったあとで惜しくなり、思い返して、言いがかりをつけるために、
「いや、もとは七つあったはずなのに、六つというのはおかしなことだ。
一つこっそりお取りになったのではありませんか?」と言う。
「そんなことはありません。最初から六つでした」と言い争って、しまいには役所で裁定してもらうことになった。
役所の長官は優れた洞察力を持っていて、
「この持ち主の男は不誠実な人物だ。拾った男は正直者である」と見て、
拾った男の妻を別の所に呼び出して事情を細かく尋ねると、男の言い分と少しも食い違いがない。
「この妻は極めて正直な者だ」と見て、持ち主の不誠実さが確定したので、
長官が裁定して言うには、
「この件は確かな証拠がないので判断が難しい。ただし、双方とも正直者と見える。
拾い主夫妻の証言は一致している。
持ち主の言っていることもその通りなのだろう。
とすれば、この銀が六つ入った袋は別人の持ち物であると言わざるをえない。
七つ銀の入った袋はまだ別の所にあるのだろうから、探すがよい」と言って、銀六つすべてを夫妻にくださった。
立派な裁きだと評判になり、広く賞賛することとなった。
心根が素直なので、自然と天が宝を与えたのである。
心がひねくれていると、神仏の罰を受けて宝を失うことになる。
この道理は少しも間違いがない。
くれぐれも心は清く正直であるべきだ。
※けっこう意訳しています。
中国版・大岡越前の名裁きといったところでしょうか。
※画像は「100時代劇.com」様から拝借
懐かしすぎる!
大岡越前といったら加藤剛さんです。
史実なのかどうかは知りませんが、「三方一両損」なんていう判決が有名です。
徳川吉宗の時代の町奉行なので、「暴れん坊将軍」にも大岡越前は登場します。
ところが、「暴れん坊将軍」での大岡越前は横内正さんが演じていました。(後、田村亮)
幼いころ、これが理解できずにいました。笑
なんで大岡越前は違う顔をしているんだ!と。
この「沙石集」のお話はちょっと過激なお裁きですね。
【原文】
近比、帰朝の僧の説とて、ある人語りしは、唐に賤しき夫婦有り。餅を売りて世を渡りけり。
夫の道の辺にして餅を売りけるに、人の袋を落としたりけるを見ければ、銀の軟挺六つ有りけり。
家に持ちて帰りぬ。
妻、心すなほに欲なき者にて、
「我らは商うて過ぐれば、事も欠けず。この主いかばかり嘆き求むらん。いとほしき事なり。主を尋ねて返し給へ」
と言ひければ、誠にとて、普く触れけるに、主といふ者出で来て、是を得てあまりに嬉しくて、
「三つをば奉らん」といひて、既に分かつべかりける時、思ひ返して、煩ひを出ださんが為に、
「七つこそ有りしに、六つあるこそ不思議なれ。一つは隠されたるにや」といふ。
「さる事なし。もとより六つこそ有りしか」と論ずる程に、果ては国の守の許にして是を断らしむ。
国の守、眼賢くして、
「この主は不実の者なり。この男は正直の者」と見ながら、不審なりければ、かの妻を召して別の所にて、事の子細を尋ぬるに、夫が状に少しも違はず。
「この妻は極めたる正直の者」と見て、かの主、不実の事確かなりければ、国の守の判にいはく、
「この事、確かの証拠なかりければ判じがたし。ただし、ともに正直の者と見えたり。夫妻また言葉変わらず。主の言葉も正直に聞こゆれば、七つあらん軟挺を尋ねて取るべし。是は六つあれば、別の人のにこそ」とて、六つながら夫妻に給はりけり。
宗朝の人、いみじき成敗とぞ、普く讃めののしりける。
心直ければ、自ら天の与へて宝を得たり。心曲がれば冥のとがめにて宝を失ふ。
この理は少しも違ふべからず。返す返すも心浄くすなほなるべき者なり。