驚いたのは光る君です。
人々が「六条御息所の生き霊ではないか」などとあれこれ噂するのを、「つまらない連中が言っていることだ」と聞き苦しくお思いになって、そういう噂を否定なさってきたのに、目の前でまさしく御息所の生き霊を見てしまったので、「この世に、本当にこんなことがあったとは…」とお思いになり、厭わしくなってしまいました。
つらくお思いになって、
「そのように仰っても、私にはあなたが誰だか分かりません。はっきり名乗ってください」
とおっしゃるのですが、ただ御息所のお姿そのものであるのに、「驚き呆れた」などという言葉では言い表せないほど強い衝撃をお受けになる光る君でした。
女房たちが近くに参上するのも、光る君はいたたまれなく思われなさいます。
少し生き霊の御声も低まりなさったので、「少し持ち直したのかもしれない」といって、母宮がお湯を持ってこさせ、ご内室は体を起こされなさると、間もなく若君がお生まれになりました。
光る君もご両親もこの上なく嬉しくお思いになりましたが、よりましに移しなさった御物の怪どもが、無事に出産したことをひどく憎んでめちゃくちゃに騒ぎたてるので、後産のこともまるで安心できません。
言葉では言い表せないほど願をお立てになったためでしょうか、心配された後産も無事にすんだので、天台座主をはじめとして携わっていた多くの僧侶たちは得意顔で、汗を拭いながら急いで帰っていきました。
多くの人が心配の限りを尽くして心を痛めた疲労から、光る君もご両親もほっと一息ついて、「もう大丈夫だろう」とお思いになっていました。
加持祈祷もまた新たにさせ始めなさいましたが、何といっても、まずは生まれたばかりの若君に心を惹かれ、猫かわいがりすることに皆が夢中になって、気が緩んでおりました。
桐壺院をはじめとし申し上げて、親王たちや上達部など、まれに見るほど盛大な若君誕生の祝宴が連夜催されます。
ましてお生まれになったのは男君だったので、その祝いの儀式は賑わしく立派なものでした。
例の御息所は、そういう有り様を聞きつけなさるにつけ、ただならぬ心境で、
「こないだまで非常に危うい容態だという噂だったのに、無事にお生まれになるとは。何てことかしら」とお思いになっておりました。
自分が自分でないような奇妙な心地だったことを思い返して考え続けなさっていると、不思議とお召しになっているお着物などに芥子の匂いが染みついていることに気がつきました。
御髪をお洗いになり、お召し物も着替えなさってみたのですが、臭いはまったく落ちません。
自分自身のお身体でありながら厭わしくお思いになるのですから、人がどう思うかを考えると、このことについてはお話しできるようなものではないので、心の中にだけとどめてお嘆きになるのですが、そのせいでますますお心が変になってゆくばかりなのでした。
※雰囲気を重んじた現代語訳です。
かなり大変な出産でしたが、無事に若君(後の夕霧)が誕生しました。
(◎ゝ∀・)ノ【*:+ぉめでとぉ+:*】
光源氏にようやく正式な第一子ができました。
さて前回、生き霊として取り憑いて葵の上を苦しめていた六条御息所ですが、今回は無事に出産したことを聞いて妬んでいます。
そして、ふと気づくと芥子けしの匂いが体にも衣服にも染みついていた、というのです。
芥子は加持祈祷の際に使われます。
火の中に投げ込まれるのですが、煙となって部屋に充満しており、その場にいた人の衣服や髪の毛には匂いが染みつくでしょう。
肉体は行っていなくとも、幽体離脱した魂が葵の上の所に行ったために匂いが染みついてしまったというのです。
このことにより、六条御息所は自分が生き霊となって葵の上に取り憑いていたことをほぼ確信しました。
衣服を着替えても髪を洗っても匂いが落ちない、というこの恐怖たるや想像に難くありません。
これはシェイクスピアの『マクベス』におけるマクベス夫人のシーンと重なります。
マクベス夫人は殺人を犯した罪の意識からやがて狂乱し、もう消えているはずの手についた血が脳裏から離れず、ついには夢遊病にかかり、毎夜「手についた血の染みが落ちない。どうして…」と言いながら手を洗うのです。
上の画像はヴェルディの歌劇《マクベス》で夫人に扮するソプラノ歌手のビルギット・ニルソンです。
画像をクリックするとニルソンが歌う「夢遊病の歌」の一節が流れます。
前に当ブログで書いた《マクベス》のCDの歌唱です。
話が脱線してきたのでこの辺で。
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