二月の十日過ぎのこと、紫宸殿で桜の宴が催されました。藤壺中宮と春宮の御座所は玉座を挟んで左右に設けられています。弘徽殿の女御は、藤壺中宮がこのように権勢を誇っていらっしゃるのを、折あるごとに苦々しく思っていらしたのですが、この日の桜の宴はお見過ごしになることができずに参上なさいました。
たいそうよく晴れて、空の様子も鳥の声も気分よさげであるのに、親王たちや上臈をはじめとして、その道に通じている人々は、割り当てられた題に従って漢詩をお作りになります。
光る君は、
「『春』という文字をお題に頂戴しました」
とおっしゃる声さえも、他の人とは違う高貴な響きがありました。
次は頭の中将ですが、光る君の後ということで、人がどう見るだろうかと考えると、平常心でいられるはずもないようでしたが、たいそう感じがよく、落ち着いた雰囲気で、発声なども威厳があって立派でした。
このお二方以外は、みなお題に対して気後れがちに戸惑う方ばかりでした。まして、低い身分の官人たちは、帝や春宮の学問が立派で優れていらっしゃり、この漢詩のような方面において並々ではない人が多くいらっしゃる時代だったのできまりが悪く、晴れ渡って雲一つない空の下、広々としたお庭に進み出ることは気が引けて、題を賜るのは簡単なことなのですが、心苦しそうでした。
醜く不格好な老博士たちが物馴れた様子なのもしみじみとした感じがします。
このように、同じ題を賜るということについても様々であるのを、帝は面白いものだと御覧になっているのでした。[1]
音楽や舞なども、帝はもちろん準備万端整えていらっしゃいます。
次第に夕暮れが近づいてきた頃の「春の鶯さえずる」という舞が非常に素晴らしくございました。いつぞやの紅葉の候の行幸における、光る君の青海波が思い出されて、春宮は桜の枝を簪としてお与えになって舞うようにと強くおっしゃるので、光る君はお断りすることができず、席を立ってゆったりと穏やかに袖を返す所を一指し、気持ちばかり舞いなさったのですが、それはもうこの上ない素晴らしさでした。御覧になっていた左大臣殿は、来訪が途絶えがちである恨めしさも忘れ、感涙を流していらっしゃいます。
「頭の中将よ、さあ、あなたも。遅いですよ」
と帝がおっしゃるので、『柳花苑』という舞を舞われました。光る君よりもすこし長めに舞ったのですが、こうなることを予想してご準備されていたのでしょうか、非常に素晴らしくございました。光る君を差し置いて褒美の御衣を頂戴したことを、人々は非常に珍しいことに思っていました。上達部の方々も皆入り乱れてお舞いになりましたが、夜になっていたのでよく見えず、上手い下手の判別はできませんでした。
さて、先ほど頂いた題に従って作成した漢詩を披露する時になりました。詩作においても光る君の才能はあまりに素晴らしく、講師も感極まってすらすらと詠み上げることができず、句ごとに途切れ途切れ吟じるのでした。博士たちも光る君の詩の出来映えを大変素晴らしく思っております。
このような折にも、皆がまずこの君を引き立てて光り輝かせなさるので、帝もどうしてこの君をおろそかにお思いになることがあるでしょうか。
藤壺中宮も、この君に御目がとまって、
「春宮の母女御が、一心に光る君を憎んでいらっしゃるのもおかしなことだけれど、私がこうしてこの君を愛しく思うのもつらいことだわ」
と、自省していらっしゃるのでした。
おほかたに花のすがたを見ましかば露も心のおかれましやは
〔純粋な気持ちで美しい花のようなあの方の姿を見ることができたなら、ほんの少しでも気が引けるようなことがあっただろうか、いやあるはずがない〕
お心の中で詠んだにすぎないこのうたが、どうしてこのように漏れ伝わってしまったのでしょうか。
たいそう夜更けに観桜の宴はお開きとなりました。[2]
宴に参加していた上達部の方々はそれぞれ別れて行き、藤壺中宮も春宮もお帰りになったのですっかり日常の静けさを取り戻したのですが、月がとても明るくさし昇って風流だったので、酔い心地の中、この景色を見捨ててやり過ごすのは残念だと思われなさった光る君は、
「殿上の間に控えている宿直の人々も、もう休んでいるだろう。こんな思いがけない時に、ひょっとしたら隙があるかもしれない」
と、藤壺のあたりをたいそう忍びやかに歩きまわって様子をうかがったのですが、話しかけるはずの戸口も固く閉ざされていたのです。嘆きながら、しかしやはりそのまま帰る気にはなれずにうろうろと歩いて、弘徽殿にお立ち寄りになってみると、西廂の三の口が開いていました。弘徽殿の女御は、宴の後、そのまま清涼殿の上の御局にお出ましになったため、人は少ないようです。奥の扉も開いていて、人の気配もしませんでした。
「このような所から男女の過ちというものが起こるものだよ」と思いつつ、そっと長押にのぼって部屋の中お覗きになると、女房たちは皆寝ているようでした。すると、ふとそこに、非常に若々しく魅力的な、普通の人とは思われない声で、
「朧月夜に似る物ぞなき」
と唄いながらやって来る女がいるではありませんか。嬉しさに舞い上がった光る君は、思わず女の袖をお掴みになりました。女は怖ろしく思った様子で、
「あっ。何てこと。誰?」
とおっしゃいましたが、
「恐がることとはありませんよ」といって、
「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
〔春の夜更けのしみじみとした情趣を知る私たちが巡り逢ったのも、並々ならぬ前世からの因縁だと思うのです。沈みゆく月はぼんやりと朧気ですが〕
とお詠みになり、そっと抱いて廂の間におろすと、戸をお閉めになってしまいました。[3]
驚きのあまり呆然としているのが、とても心惹かれるかわいらしいものに感じられました。震えながら、
「ここに知らない男が・・・」
とおっしゃったのですが、
「私は誰からも何でも許されているのだから、人をお呼びになったところでどうにもなりませんよ。大人しくしなさい」
とおっしゃる声で、女は男の正体が光る君であることを知り、少し気持ちを落ち着けると、辛いことだとは思うものの、恋の情趣を知らない堅苦しい女だとは思われたくないという気持ちにもなりました。
光る君はひどく酔いすぎていたのでしょうか、女を放すことが残念に思われ、女もまた若く女々しかったので、拒否するような強い心も持ってはいないのでした。かわいらしい女だとご覧になるうち、すぐに夜が明けていくので、慌ただしく感じられました。女は光る君以上に、あれこれと思い乱れているご様子です。
「文を送るから名を教えてくださいよ。これでお仕舞いになろうとはあなたもお思いではないでしょう」
とおっしゃると、
「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」
〔このままつらいわが身がこの世から消えてしまったならば、草原に眠る私の墓所を尋ねて来たりはするまいとお考えなのですか〕
という様子は、妖艶で優雅な感じがします。光る君は、
「もっともですね。さっき申し上げたのは取り消します」といって、
「いづれぞと露の宿りをわかむまに小笹が原に風もこそ吹け
〔あなたが涙の露をこぼしながら悲しみに耐えつつ住む家を探し歩いているうちに、私たちの噂が小笹が原を吹き抜ける風に乗って広まっては困るでしょう〕
鬱陶しいと思っていらっしゃるのでなければ、隠すことはないでしょう。もしや、はぐらかそうというおつもりですか」
と言い終わらないうちに、女房たちが起きてざわざわし始め、上の御局に入れ替わり立ち替わり参上する気配が激しくなってきたので、光る君は非常に居心地が悪くなって、二人の逢瀬の証として扇を交換して退出なさるのでした。[4]
光る君の内裏での居室になっている桐壺には女房たちが大勢お控えしており、光る君の行動に気がついている者もいたので、
「それにしても、ひっきりなしの忍び歩きでいらっしゃること」
とひそひそ話をしながら寝たふりをしています。
光る君は御寝所にお入りになりましたが、横になってもお眠りになることができません。
「かわいらしい人だったなあ。おそらく弘徽殿の女御の妹君だろう。まだ世慣れていなかったから、五の君か六の君といったところだろうな。帥の宮の正妻や、頭の中将から愛されていない四の君などは良い女だと聞いた。もしそれだったら、もう少し面白かっただろう。六の君は春宮に嫁がせるつもりでいらっしゃるらしいから、もしそれなら気の毒な気もするな。やっかいなことに、尋ねるようなのもややこしいことになりかねない。あれきりで終わろうとはあの女も思っていないようだったが、どうして文を交わす術を教えてくれなかったのだろう」
などと、様々に思うということは、かなり気になっているということでしょう。このようなことにつけても、まず奥ゆかしく隙のない藤壺の宮様のことが思われて、比較なさらずにはいられないのでした。[5]
その日、光る君は改めての宴に参席なさり、忙しさに紛れてお過ごしになりました。その中で箏の琴を演奏なさったのですが、昨日よりも優雅で風情がありました。
藤壺中宮は暁に清涼殿の上の御局に参上なさっていました。しかし光る君は、
「昨夜の女はもう出て行ってしまっただろうか」
と上の空で、全幅の信頼を置いている良清と惟光をつけて様子をうかがわせなさっていたのですが、帝の御前をお下がりになった時に、
「たった今、北の陣から、前もって密かに待機していた車が何台か出ていきました。御方々のご実家の方がおりました所に、四位少将や右中弁などが急いで出向いてお見送りをしていたので、弘徽殿方の別離だろうかと見受けられました。高貴な様子がはっきりと見てとれ、車は三台ほどでした」
というご報告を受け、胸がつぶれる思いでいらっしゃいました。
「五の君だったのか六の君だったのか、どうすれば分かるだろうか。父の右大臣がこのことを聞いて、私のことを大袈裟に扱うとしたら、それもいかがなものか。あの女の人となりをしっかりと見定めないうちは、慎重に運ばないと厄介なことになるかもしれない。だからといって、女の正体が分からないままでいるのもまた残念に決まっているし、どうしようか」
と思い悩みながら横たわって、しみじみ物思いに耽りなさる一方で、
「紫の君はどんなにか寂しい思いをしていることだろう。もう何日も内裏に寝泊まりしているからすっかりいじけているかもしれないな」
と、かわいらしい姫君に思いを馳せなさるのでした。
昨晩、女と交換して受け取った扇は、桜の三重重ねで、濃い方に霞んだ月を描いて、それが水面に映っている絵柄はありきたりでしたが、使い慣らしてあって、心惹かれるものがありました。昨晩女が詠んだ歌が妙に心に引っかかっていたので、
世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にまがへて
〔このような気持ちは初めて味わう気がするよ。有明の月の行方を空で見失ってしまって〕
と扇に書きつけなさいました。[6]
「左大臣家は随分ご無沙汰してしまったなあ」とお思いになりましたが、紫の君のことも気に掛かっているので、そちらを慰めようとお思いになって、二条院へとお出かけになりました。久しぶりに見た紫の君はたいそうかわいらしく成長して魅力的で、洗練された心遣いは別格でございます。物足りない所などない、自分の理想とする女性になるよう教育しよう、と思っていらしたその通りになりそうです。
「男である自分の教育だから、少し男馴れしてしまわないだろうか」と心配していました。
ここ数日のことを話して聞かせ、御琴などを教えて過ごし、そしてまたお出かけになるのを、「また・・・」と残念にお思いになりましたが、以前とは違ってよく教え込まれているので、無茶苦茶にまつわりついたりはしません。
さて、左大臣家のご内室は、例によってほんの少しも光る君と対面なさいません。時間を持て余した光る君は、さまざまなことに思いを巡らせながら、箏の琴を掻き鳴らすと、
「やはらかに寝る夜はなくて」
と、朗詠なさいました。
そこに左大臣がやって来なさって、先日の桜の宴が面白かったことなどを申し上げなさいました。
「長い年月を生きてきて、ご立派な帝四代の治世を見てきましたが、今回ほど詩歌に優れ、舞も音楽も素晴らしく、楽器の音色もよく調和していた宴席の舞楽は初めてで、寿命が延びたような気がしました。それぞれの道の名人が多くいるこのご時世に、そういう人から奥深いところまで学び取り、極めなさったようですね。この年寄りも、思わず舞いだしてしまいそうでした」
と申し上げなさると、
「特別に準備をしたわけではございません。ただ仕事として、芸へのこだわりが強い師をあちこちに尋ねて行ったまでのことです。それより何より、頭の中将の『柳花苑』の舞の素晴らしさとは、あれが後世での指標となるに違いないものと見ました。まして、いよいよ栄えていくこの春に義父殿が立ち出て舞いなさったならば、大変な名誉だったでしょうに」
と申し上げなさいました。そこに頭の中将などが参上して、勾欄に寄りかかりながら、それぞれが楽器を手に取って合奏なさったのは、非常に風情がありました。[7]
例の有明の君は、はかなかい夢のようだった光る君との逢瀬の夜を思い出しなさって、たいそう嘆かわしい気持ちで物思いに沈んでいらっしゃいます。春宮への入内は四月ごろにとお考えになっていたので、女はとてもつらく思い乱れていらっしゃり、光る君の方もまた、お訪ねになろうにも、手がかりがまったくないわけではなかったものの、はっきりと女の正体が分からなかったうえに、光る君のことを快く思っていらっしゃらない家に積極的に関わりを持つのもきまり悪くて思い煩っていらっしゃったところ、三月の二十日過ぎに、右大臣殿の弓の競射の催しに、上達部や親王の方々が数多くお集まりになり、そのまま藤の宴が催されることがありました。
桜の花盛りは過ぎていましたが、「ほかの散りなむ後ぞさくかまし」という歌でも教えられたのだろうか、遅れて咲いている桜が二本あってたいそう面白くございました。姫君たちの御裳着の日のために新しく、お作りになった殿舎がきらびやかに磨き上げてしつらえられていたのを見ると、右大臣殿はずいぶんと派手好みな御性分のようで、何もかもが今風でございました。
右大臣殿は、先だって内裏で光る君にお会いになった際に、この催しにお誘い申し上げなさっていたのですが、いらっしゃらなかったので、いまいちぱっとしないのを残念にお思いになって、四位の少将に迎えに行かせなさいました。
わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし
〔もし我が邸の花が並み一通りの風情だったなら、このうえどうしてあなたの訪れを待つでしょうか。格別ですからぜひ足をお運びください〕
光る君は宮中にいらっしゃる時だったので、そのまま帝にお見せしなさいました。
「得意顔だな」とお笑いになって、
「こうしてわざわざお呼びがかかっているのだから早く行きなさい。あそこにはそなたの義理の姉妹もいるのだから、ただの客人として招こうというわけではないのだろうよ」
などとおっしゃいました。[8]
光る君は身支度を整えなさって、日もすっかり暮れるころに、右大臣殿をお待たせしながらお越しになりました。桜襲の唐織りの薄絹直衣、葡萄染の下襲、裾を後ろにとても長く引いて、他の人たちは皆袍を着ていましたが、光る君は優雅にくつろいだ恰好で、人々に手厚く迎え入れられなさるご様子は、本当にたいそう格別です。花の美しさも光る君の前では霞んでしまい、かえって興ざめなほどでした。
管絃など、光る君は非常に素晴らしく演奏なさり、夜が少し更けた頃、ひどく酔いすぎたふりをしながら、どさくさに紛れて席をお立ちになりました。
寝殿には弘徽殿の女御の長女と三女がいらっしゃいました。光る君は東側の戸にそっと寄りかかって身を潜めなさいました。
藤の花は、この寝殿の東側の軒先に咲いていたので、御格子をすべて上げて女房たちは端近くに座っています。
女房の袖口などが連なって見えるのは、いつだかの正月の踏歌のときが思い出されましたが、この邸に仕えている女房たちのはどこかわざとらしく感じられ、この日の雰囲気にはそぐわないとお思いになった光る君は、この時もまた、まず藤壺様のことを思い出さずにはいられないのでした。[9]
「酔いすぎたところにひどく酒を強要されて、参ってしまいました。畏れ多いことですが、こちらに身を隠させていただきましょう」
と言って、妻戸の御簾から顔を覗かせなさると、
「まあ、困ったことですわ。身分の低い人は、高貴なお方との縁を頼って来ることもあるそうですが」
と言うのを御覧になると、女房たちは威厳のある感じではないものの、並大抵の若者ではなく、上品で風情のある様子がはっきりと現れていました。
どこかで焚いているお香が充満しており、衣擦れの音をたいそう派手に響かせていて、奥ゆかしい雰囲気には欠け、最先端の流行を好むのがこのお邸の気風で、高貴な女宮様方が藤の宴をご覧になるということで、こちらの戸口の方に座を占めていらっしゃるのでしょう。
本来あるべきことではないのですが、強く興味をお持ちになっている光る君は、あの女はどれだろう、と胸がどきどきしながら、
「扇を取られてつらい目に遭いましたよ」
と、おどけた声で言いながら戸口に寄りかかってお座りになりました。
「何ですの?それは。変な替え歌ですこと」
と言うのは、何も知らない女房でしょうか。
返事をせずに、ただ時々ため息をついているような女のがいたので、光る君はそちらに行って柱によりかかりなさると、几帳越しにその人の手をお取りになって、
「あづさ弓いるさの山にまよふかなほの見し月の影や見ゆると
〔梓弓を射るという、その「いる」ではなく、いるさの山に私は迷い込んでしまったことです。あの夜かすかに見た有明の月の姿が見えるかと思って〕
なぜでしょうか」
と当てずっぽうに見当をつけた女におっしゃったのですが、まさしくあの女だったようで、気持ちを抑えきれないようでした。
「心いるかたならませば弓張の月なき空にまよはましやは」
〔もし本当に心惹かれている方なら、弓張り月のない闇夜の空でも迷ったりするはずはありません〕
という声は、まさしくあの夜の女です。光る君は非常に嬉しくお思いになりましたが・・・[10]
[紅葉賀][葵]