光る君はご自分のお部屋でごろんと横になると、「気が滅入ってしかたがない。しばらくしたら左大臣家に伺おう」とお思いになりました。
お庭の草木がなんとなく青々としている中に、撫子の花がきれいに咲き始めているのが目についたので、折って持ってこさせなさると、王命婦のもとに文をお書きになりました。
何かと気ぜわしく、お心の安まる時がないようです。
「よそへつつ見るに心はなぐさまで露けさまさる撫子の花
〔なでし子の花を見るにつけ、愛しい御子と結びついてしまい、心は晴れるどころかむしろ涙が溢れてますます湿っぽくなってしまうことです〕
この花のようにかわいらしくお生まれになって欲しいと思っていたのですが、どうにもならない二人の仲ですよ」
とありました。
ちょうどそういう頃合いだったのでしょうか、王命婦は藤壺の宮様に文をご覧に入れて、
「ほんのわずかでも、この花びらにお返事をどうぞ」
と申し上げると、藤壺の宮様もたいそうしんみりとしたお心持ちだったので、
「袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬ大和撫子」
〔涙で袖をぬらしている人の縁だと思うにつけても、やはり疎ましく思われることもあります。この大和撫子は〕
とだけ、書きかけのようにわずかにお書きになったのを、喜んで王命婦が光る君にお送りすると、光る君はいつものように返事はあるまいと気弱になってぼんやりと横たわっていらしたところに、お返事が届いたので、胸が躍って大変に嬉しくお思いになって涙を流すのでした。
ぼんやりと横たわっていても、物思いは晴れそうにもない気がしたので、例によって気を紛らわすために紫の君のいる西の対にいらっしゃいました。
だらしなく少し乱れていらっしゃる御髪に寛いだ袿姿で、心惹かれる笛を気ままに吹きながら部屋の中を覗きなさってみると、先ほどの撫子の花が露に濡れたかのような感じで肘掛けに寄りかかっていらっしゃる紫の君のお姿は、実に美しくかわいらしくございました。
愛らしい魅力があふれ、光る君が二条院にいらっしゃるのにすぐにはお越しにならなかったことが恨めしくて、いつもと違い、そっぽを向いていらっしゃるようです。
部屋の端の方に座って、
「こっちへいらっしゃい」
とおっしゃっても見向きもせず、「いりぬる磯の」と口ずさみ、袖で口を覆い隠しなさっている様子は、非常に機転の利く感じがしてかわいらしくございました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
前回、はじめて皇子と対面した光源氏でしたが、罪悪感に押し潰されそうになって自邸の二条院へと帰って来て寝っ転がっているところから始まります。
すると、庭に撫子の花が咲き始めているのが目にとまりました。
実は、本文では最初だけ「常夏の花やかに咲き出でたるを」と書かれています。
常夏は撫子の異称でした。
これは「帚木」の巻で解説しています。(こちら)
今回はなぜ最初だけ「常夏」としているのか、よく分かりません。
と思って調べていると、「夏」に「なつかし」を響かせている、という解説を載せているサイトがありました。(ここ)
なるほど~。他が「撫子」で一箇所だけ「常夏」なのには何か意味があるはずですよね。
さておき、紫の君の「いりぬる磯の」という発言について。
これは、岩波文庫の注釈によると、『拾遺和歌集』や『万葉集』に採られている歌、
潮満てばいりぬる磯の草なれや見らく少なく恋ふらくの多き
という坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の歌を引いたもの、と補注がついていました。
「なれや」は断定の助動詞「なり」の已然形に疑問の「や」がついたもので、「~だろうか」と訳します。
それから、下の句には「く」が反復して用いられているのが印象的ですが、「見らく」と「恋ふらく」はク語法と呼ばれる文法事項の仲間です。(「少なく」はただの形容詞連用形)
「~らく」をつけることによって名詞化させる働きを持つものです。
「見らく=見ること」「恋ふらく=恋しく思うこと」というわけです。
通して訳すと、
あの人は潮が満ちると海の中に消えてしまう磯の草なのだろうか。見ることが少なく、恋しく思うことばかりが多いよ。
ということになります。
紫の君はこの歌の一節を引用することで、光源氏がすぐに来てくれなかったことに不満を述べているのです。
なんと賢い少女でしょうか!
そして他の妻や愛人に比べるとスーパー恵まれていることをまだ知らぬのですな。
ていうか、藤壺の宮から返事をもらってすっごい喜んでいたはずなのに、あっという間に紫の君のかわいさに心奪われる光源氏ってやっぱり・・・。
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