「そのうちお手紙を差し上げましょう。あなたのことを思いながら過ごしているのですよ」
と言って振り払ってお立ちになるのを、無理に追いかけて、
「橋柱」
と恨み言を投げかけました。
帝は御袿をお召しになり、その様子を襖障子から覗き見ていらっしゃいました。
「似つかわしくない二人だな」とたいそうおかしく思われなさって、
「女たちは光る君のことを硬派すぎるといつもぼやいているようだが、典侍すら見過ごさずに声を掛けていたとは」
と言ってお笑いになるので、典侍は何やら気恥ずかしい気がしたのですが、愛しい人のためなら喜んで濡れ衣も着ようという人もいて、彼女もそういう類いの人だったせいでしょうか、帝のお言葉もほとんど否定しませんでした。
女房たちも意外なことだとしきりに話していたようで、頭の中将が聞きつけて、「あらゆる女性の情報を集めているはずの私が典侍は見落としていたよ」と思うと、その歳を取っても尽きることのない好色な心を見てみたくなって親しくなっていきました。
頭の中将も格別に優れた人だったので、「あの方の薄情さの慰めにもなろうか」と典侍は思ったのですが、実のところ心から愛しているのは光る君だけだったとかいうことです。
何ともまあ、みっともないことですね。
このことは厳重な秘密にしていたものですから、源氏の君はご存知ありませんでした。
典侍は光る君をお見かけするたびに恨み言を申し上げるのですが、年齢のことを考えると気の毒な気もしたので、慰めてやろうともお思いになったのですが、どうにも憂鬱で随分と長いこと足が向かずにいたのですが、夕立が降ったせいで涼しかったある宵の間に、温明殿のあたりをうろうろとお歩きになっていたところ、この典侍が琵琶を非常に素晴らしく弾いていました。
典侍は帝の御前でも、殿方の演奏にまじって弾くこともあるほどで、並ぶ者のない琵琶の名手でしたから、恨めしさが募っていた感情も手伝って、たいそうしみじみと心を打つ音が聞こえてきます。
「瓜作りになりやしなまし」
と歌う声はとても趣があったのですが、やはりその文句は光る君には少し不快でした。
「昔、鄂州で白楽天が聞いたとかいう女の声もこんな風だったのだろうか」とお聴きになっていました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
温明殿(うんめいでん)のあたりを歩いている光源氏と、琵琶を弾く典侍が描かれています。
「紅葉賀」には光源氏と頭中将が青海波を舞うシーン、皇子の誕生、光源氏と藤壺、などの名シーンがあるのに、どうしてこの場面が選ばれているのか、かなりの謎です。笑
この絵に描かれている琵琶のネックは複雑に曲がっていますね。
調べてみると、まっすぐなものや曲がったものや、様々あるみたいです。
ちなみに温明殿というのは内裏の殿舎の一つです。
さて、典侍が最初に投げかけた短い文句「橋柱」とは何かというと、お察しの通り引き歌です。様々な歌が元歌として指摘されているようですが、岩波文庫の注釈によると、
津の国の長柄の橋の橋柱古りぬる身こそ悲しかりけれ
〔淀川に架かる長柄の橋の柱のように、古くなってしまったわが身が悲しいことよ〕
を踏まえたものだ、とされています。この歌は詠み人知らずです。
直前の、光源氏の「今きこえん。思ひながらぞや」という発言から「ながら→長柄」という連想でこの引き歌になったのだ、と解説されている箇所です。
なるほど。というわけで、上の現代語訳でも「ながら」をそのまま活かしておきました。
ちなみにこの長柄の橋というのは「雉も鳴かずば打たれまい(雉も鳴かずは打たるまじ)」という格言と深い関わりがあるのだそうです。(こちら参照)
続いて、典侍が琵琶に合わせて唄った「瓜作りになりやしなまし」です。
直訳すれば「瓜作りになってしまおうかしら」ということですが、『山城』という催馬楽を踏まえたものらしいのですが、催馬楽など手に負えないのでこちらのサイトを参照してください。
最後に「鄂州がくしゅう」は中国の地名です。
『白氏文集』にそういう内容の詩があるとのこと。
白楽天が鄂州に泊まった秋の夜、隣の舟から女が素晴らしく唄う声が聞こえてきた、という歌で、光源氏は咄嗟にこの漢詩が思い出されたというわけです。
では今回はここまで。
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