菅原孝標女が書いた『更級日記』。
幼少期を東国・上総国(今の千葉)で過ごし、物語の世界のイケメン貴族に憧れ、やがて現実に目覚め・・・
と、筆者の人生をしみじみと書き綴った名文です。
今回取り上げるのは、上総国から上京してくる途中、武蔵国(今の東京)に入った所です。
【現代語訳】
武蔵国に入った。特に目を惹くような所も見あたらない。
浜辺の砂も白くなく泥のようで、紫草が生えていると聞いていた野原も、葦や荻ばかりが背高く伸びていて、――馬に乗って弓を持っている、その弓の先端が見えないほどに高く伸びて生い茂り―― それをかき分けながら進んで行くと、竹芝という寺がある。
遠くに「はは荘」などという所の領主の屋敷跡の礎などがある。
「ここはどういう所か」と尋ねると、
「ここは、昔”竹芝”といった坂だ。この国にいた人を、宮中で火を焚いて夜の警護をする衛士として奉仕させたところ、宮中の庭を掃除しながら『どうしてこのような苦しい目を見ているのだろう。故郷に、ここに七つ、そこに三つとこしらえて置いてある酒壺の上に掛け渡した、ひょうたんをそのまま割った柄杓が、南風が吹くと北を向き、北風が吹くと南を向き、西風が吹けば東を向き、東風が吹けば西を向く、その景色を見ることもなく、こんな風にしていることだよ』と独りごとをつぶやいたところ、その頃たいそう大事に育てられていらっしゃった皇女が、たった一人で御簾の所まで出て来なさって、柱に寄りかかって外の様子をご覧になっていて、この男がこのように独りごとを言ったのをお聞きになり、たいそうしんみりして、どんな柄杓がどのように風になびくのだろう、と非常に興味深くお思いになったので、御簾を押し上げて、『そこの男よ、近う寄れ』とお呼びになったので、畏れながら勾欄のもとに参上したところ、『さっき言っていたことをもう一度私に言って聞かせなさい』とおっしゃったので、酒の壺のことをもう一度申し上げたところ、『私を連れて行ってそれを見せよ。そのように言う理由があるはずだ』とおっしゃったので、非常に恐ろしいことだと思ったけれど、そうなる宿命だったのだろうか、男は皇女を背負い申し上げて故郷に下って行ったが、もちろん追っ手が来るだろうと思って、その夜、瀬田の橋のもとに、この皇女をお待たせ申し上げて、橋の一間だけを壊し、それを飛び越えて、この皇女を再び背負い申し上げて、七日七晩かかって武蔵国に到着した。
帝と皇后は、姫宮が失踪なさったと狼狽なさり、お探しになっていると、武蔵国の衛士の男がとても良い香りがするものを首に掛けて飛ぶように逃げて行った、とある者が申し出て、この武蔵の男を捜したがいなかった。言うまでもなく生まれ故郷に向かっているのだろうと朝廷から使いを出し、追いかけて下って行くが、瀬田の橋が壊れていて行くことができず、三ヶ月かかって武蔵国に到着してこの男を訪ねたところ、皇女が朝廷の使いをお呼びになって、『私はこうなる宿命だったのだろうか、この男の生家が見たくて、連れて行けと命じたから、私を連れて来たのだ。ここは非常に暮らしやすく思われる。この男が罪人として罰せられたら、私はどうやって生きていけばよいというのか。これも前世からの因縁で、この国に住むことになる宿命があったのだろう。はやく都へ帰って、このことを帝に申し上げよ』とおっしゃったので、何とも言うことができずに帰京して、帝に、このようでした、と申し上げたところ、『どうしようもない。その男を罰しても、もはや姫宮を都に取り返し申し上げることはできそうにもない。竹芝の男に、生きている間は武蔵国を預け与えて、税の類いも免じよう』ということで、ただ姫宮にその国をお預け申し上げなさる旨の宣旨が下ったので、この家を内裏のように造って住まわせ申し上げた家を、男も姫宮もお亡くなりになったので寺に建てかえたのを、”竹芝寺”というのだ。その皇女がお生みになった子どもは、そのまま武蔵という姓を得たそうだ。それからというもの、火焚き屋には女がいるそうだ」と語る。
※ほぼ直訳です。
『更級日記』の中でもかなり印象深い所です。
現在東京都港区にある済海寺はここに登場する「竹芝寺」の跡地に建立されている、と言われているそうです。
今度行ってみよーっと。
ε=ε=ε=(o・・)oブーン
「竹の園/竹の園生」は皇族のことを指す語です。
辞書を引くと「中国で、梁の孝王が庭に竹を植え、修竹苑と称したことからいう」と書かれています。
皇女が暮らした屋敷の跡地に建立された寺が「竹芝寺」と名づけられたことには、皇族と竹の結びつきからきた名前なのかあ、って思いました。
岩波文庫も講談社学術文庫も言及していませんし、単なる思いつきですが。
裏も取っていませんし、取る気もありません。笑
単に竹が群生していた地だったのかもしれません。
それから「瀬田の橋」というのが出てきました。
※原文では「勢多の橋」と表記
これは琵琶湖から流れ出る瀬田川(京都に入ると宇治川)に架かる橋です。
今年のGWに石山寺を参拝したあと、この瀬田唐橋の近くの青年会館(アーブしが)に宿泊しました。
瀬田唐橋は車でも渡りました。
時間帯によってはかなり渋滞する所のようです。
せっかく瀬田唐橋を見てきたので、それにまつわるものを書いておきたかったのです。
ではまあこんな所で、最後に原文と簡単な語釈をつけておきます。
【原文】
今は武蔵国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。
濱も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。
はるかに、ははさうなどいふ所の、らうのあとの礎などあり。
「いかなる所ぞ」と問へば、
「これは、いにしへ竹芝といふさかなり。国の人のありけるを、火焚き屋の火焚く衛士にさし奉りたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しき目を見るらむ、わが国に七つ三つつくりすゑたる酒壺に、さし渡したるひたえのひさごの、南風ふけば北になびき、北風ふけば南になびき、西ふけば東になびき、東ふけば西になびくを見で、かくてあるよ』とひとりごちつぶやきけるを、その時、帝の御女いみじうかしづかれ給ふ、ただひとり御簾のきはにたち出で給ひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこのかくひとりごつを、いとあはれに、『いかなるひさごの、いかになびくならむ』といみじうゆかしく思されければ、御簾をおしあげて、『あのをのこ、こち寄れ』と召しければ、かしこまりて勾欄のつらに参りたりければ、『いひつること、いま一かへりわれにいひて聞かせよ』と仰せられければ、酒壺のことを、いま一かへり申しければ、『我ゐて行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこく恐ろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひ奉りて下るに、論なく人追ひて来らむと思ひて、その夜、瀬田の橋のもとに、この宮をすゑ奉りて、勢多の橋を一間ばかりこぼちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひ奉りて、七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり。
帝、后、御子失せ給ひぬと思しまどひ、求め給ふに、武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしきものを首にひきかけて飛ぶやうに逃げけると申し出でて、このをのこを尋ぬるになかりけり。論なくもとの国にこそ行くらめと、おほやけより使くだりて負ふに、勢多の橋こぼれて、え行きやらず、三月といふに武蔵の国に行き着きて、このをのこを尋ぬるに、この御子おほやけづかひを召して、『我さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、ゐて行けといひしかばゐてきたり。いみじくここありよくおぼゆ。このをのこ罪しれうぜられば、我はいかであれと。これもさきの世にこの国にあとをたるべき宿世こそありけめ。はや帰りておほやけにこのよしを奏せよ』と仰せられければ、いはむ方なくて、上りて、帝に『かくなむありつる』と奏しければ、『いふかひなし。そのをのこを罪しても、いまはこの宮をとりかへし、都にかへし奉るべきにもあらず。竹芝のをのこに、生けらむ世のかぎり、武蔵の国を預けとらせて、おほやけごともなさせじ』、ただ宮にその国を預け奉らせ給ふよしの宣旨くだりにければ、この家を内裏のごとくつくりて住ませ奉りける家を、宮など失せ給ひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮の産み給へるこどもは、やがて武蔵といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火焚き屋に女はゐるなり」と語る。
◯竹芝といふさか…岩波は「さか」について「『さう』の誤りで荘の意か。一説『姓なる国の人』と読む」としている。講談社は「『さう』の誤写とみて荘園または姓と解する説があるが、『さか』のままで坂としてよかろう。『増訂新註』では『今済海寺のある処は伊皿子坂の上であるが、伝への如く済海寺が竹芝寺の址だとすれば、此のさかといふ語は、その地にかなふのである』と言われるとおりである」としている。
◯ひたえのひさご…ベネッセ古語辞典で「ひたえ」を引くと「取り外しのできないように取り付けてある柄。作り付けの柄。また、用具自体が柄の役も兼ねるもの」とある。「ひさご」は柄杓のこと。