一茶を取り上げるのは5年ぶりのようです。( ゚д゚)ンマッ!!
本をパラパラとめくって春の俳句で目に留まったものを取り上げてみます。
梅が香やどなたが来ても欠け茶碗
芳しい梅の花の香りが漂う中、誰がお客さんとして来ても欠けた茶碗しかない、という自虐。
そして「梅×欠け茶碗」という不調和が生みだす詩的諧謔。
なかなか良いですね。
文化元年(1804年)一茶42歳の句。
達磨替
ちる花を屁とも思はぬ御顔哉
桜の花が散るのなんか屁とも思っていないようなお顔だなあ・・・。
誰の顔か、というと題がついているので分かりますが、だるまさんです。笑
だるまは江戸時代には疱瘡の病を避ける縁起物としても販売されていたそうです。
それにしても、「屁とも思わない」という表現が江戸時代には既にあったのですね。
そして、それは慣用句であるにしても、あえてその後をチョイスしているのは、「花×屁」という不調和の詩的諧謔を意図したものであり、その点では前の句と同様の趣向と言えましょう。
文化二年(1805年)一茶43歳の句。
花ちりてげっくり長くなる日哉
げっくり、という表現が面白いですね。
当時の信州方言でしょうか。
Googleで検索しても北海道の方言でしゃっくりのこと、というのしか見つかりません。
もちろんそんなはずはなく、「非常に」とか「めっちゃ」とかいう意味でしょう。
文化五年(1808年)一茶46歳の句。
世の中や蝶の暮らしもいそがしき
蝶々も見方によって様々。
モハメド・アリの「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉では、ヒラヒラと舞う蝶を自己の軽快なフットワークに例えています。
一方、蝶々の動きを「落ち着きがない/せわしない」と捉えることもあり、ここでもそうです。
蝶々には蝶々の忙しさがあるんだなあ、という一句です。
文化八年(1811年)一茶49歳の句。
むつまじや生まれかはらばのべの蝶
前句と同じころ(文化八年/一茶49歳)の一句です。
仲良く舞っている一対の蝶々を見て、生まれ変わったらあんな風に野原を飛び回る蝶になりたい、ということです。
ちなみに、この句が詠まれてから3年後、52歳となった一茶は、28歳のお菊ちゃんと結婚します。
花の月のとちんぷんかんの浮き世哉
花だの月だのと、ちんぷんかんぷんな浮き世だなあ。
これは無季の句です。
花は桜で春、月と言えば秋、どちらも伝統的な風情ですが、そういう固定観念に縛られた世の中を「ちんぷんかんぷんだ」と批判しているわけですね。
一茶のこういう尖った一面もまた魅力的だと思います。
これまた文化八年の作品です。
久しぶりの一茶でしたが、お菊ちゃんとの年の差婚の衝撃で俳句の印象が薄れてしまったかもしれませんね。笑
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