2018年 センター試験 古文


今年の出典は『石上私淑言』という本居宣長の歌論でした。

問題が必要な方は毎日新聞のホームページをご参照ください。

センター試験で歌論が出題されるというのは実に17年ぶりのことです。

ただし歌論とはいえ、和歌の解釈に関係する問題はなく、本文中にも和歌は含まれていませんでした。

さて、今年もリード文がついていたのでまずはそこからです。


次の文章は『石上私淑言』の一節で、本居宣長が和歌についての自身の見解を問答体の形式で述べたものである。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。


リード文を読んでも「本文は江戸時代に書かれた歌論だ」という情報しか得られません。

設問からヒントを探ろうとしても、ヒントになるようなものがありません。

それでも、選択肢を見渡すだけで、「情」と「欲」の違い、「和歌」と「漢詩」の違い、などが述べられていることだけは把握できるでしょう。

仕方がないので、最初から読解していくしかありません。

冒頭、いきなり傍線Aで問3。


問3 傍線部A「恋の歌の世に多きはいかに」とあるが、この問いに対して、本文ではどのように答えているか。最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。


傍線部はほぼ現代語なので問題ないですね。これについては第2段落を読めば分かります。

『万葉集』には相聞とあるが恋にて・・・歌は恋をむねとすることを知るべし。そもいかなればかくあるぞ、といふに、恋はよろづのあはれにすぐれて深く人の心にしみて・・・すぐれてあはれなるすぢは常に恋の歌に多かることなり。

→『万葉集』においては、「相聞」とあるのが「恋」の部であり・・・歌は恋を中心とすることを知るべきだ。それにしても、どうしてそうなのかというと、恋は(世の中の)あらゆる情趣のなかでも格別に深く人の心にしみて・・・際立ってしみじみ胸を打つのは、常に恋の歌に多いものなのである。

恋の歌が多い『万葉集』の影響力が強かったため、『万葉集』以後の歌集でも恋の歌は連綿と詠まれ続けてきた
②人の抱く色々な感慨の中でも特に恋は切実なものなので、恋の歌が上代から中心的な題材として詠まれている
相手への思いをそのまま言葉にしても、気持ちは伝わりにくいので、昔から恋心は歌に託して詠まれてきた
④恋の歌は相聞歌のみならず四季の歌の中にもあるため、歌集内の分類による見かけの数以上に多く詠まれている
自分の歌が粗雑であると評価されることを避けるあまり、優雅な題材である恋を詠むことが多く行われてきた

①③⑤の選択肢は論外。それにかすったことすら書いていません。

⑤の選択肢は和歌の分類の一つである「雑ぞう」を捉え違えた人が間違って選ぶことを狙った選択肢でしょう。「雑」はもちろん粗雑という意味であるはずがなく、「その他」という程度のもので、「四季/恋」などに分類できないもの全般を指します。

④は、本文の中に「四季の歌の中でも〈恋〉と〈雑〉に分かれている」という風に書かれていますが、それが原因で恋の歌が増えている、という風には説明されていません。

②が圧倒的に正解なのですが、「上代」というのは文学史の用語で、平安時代よりも前の時代の総称です。『万葉集』の成立は奈良時代なので、上代の作品ということになります。


第3段落に入ると新たな問いかけ「おほかた世の人ごとに常に深く願ひ忍ぶことは、色を思ふよりも、身の栄えを願ひ財宝を求むる心などこそは、あながちにわりなく見ゆめるに、などてさるさまのことは歌に詠まぬぞ」が出てきます。

→おおよそ、世間の人々が常に深く願って心にかけていることは、恋のことよりも、自身の繁栄を願って財宝を求める心などこそ、「あながちにわりなく」見えるが、どうしてそのことについては歌に詠まないのか。

「あながちにわりなく」は傍線(ア)で、問1の意味を答える問題です。

ひたむきで抑えがたく
②かえって理不尽に
③なんとなく不合理に
④ややありきたりに
⑤どうしようもなく無粋に

「あながちなり」という形容動詞は「強ちなり」という漢字を書くことを覚えておくと良いでしょう。すると、「強引である様」「ひたすらな様」を表すことと結びついて思い出しやすいはずです。

「わりなし」という形容詞はもっとメジャーな重要語。「わり」は「理」の意味で、「道理に合わない」の意味を基本として、「道理に合わないほど~だ/理屈で説明できないほど~だ」という様々な意味に派生していきます。

「あながちなり」の意味から、①ではないかと思われますが、①の訳を文章に入れて文脈がおかしくならないかを確認します。すると、「おおよそ、世間の人々が常に深く願って心にかけていることは、恋のことよりも、自身の繁栄を願って財宝を求める心などこそ、ひたむきで抑えがたく見えるが、どうしてそのことについては歌に詠まないのか」となりバッチリ。「ひたむきで抑えがたいように」としてくれていれば、なお自然な日本語になりましたね。

正解は①。前後の文も読めていれば難しくないはず。

さて、内容的には、前の段落で「和歌の中心になるのは恋の歌である。恋ほど人の心に深くしみる感情はないからだ」と述べられていたことを受けて、「しかし、世の人は恋よりも金持ちになることを深く願っているようだが、なぜ金持ちになりたい歌は詠まれないのか」と話題が移ります。

そして、その問いかけに対する答えが次の第4段落です。

答へて云はく、情と欲とのわきまへあり。


問4 傍線部B「情と欲とのわきまへあり」と恋との関係について、本文ではどのように述べているか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。


古語で「わきまふ」とは「区別する」の意味で使われることが多く、念のため覚えておくように教えている言葉です。今回はその名詞形として出てきたので、もちろん「区別」という意味です。

つまり「〈情〉と〈欲〉とには区別がある」ということを言っているのです。

どういう区別なのか、読まなくても分かりますし、「恋=情」で「金持ちになりたい=欲」という区別であることも読まずに分かるのですが、一応読んでやることにしましょう。笑

すべて人の心にさまざま思ふ思ひは、みな情なり。その思ひの中にも、とあらまほしかくあらまほしと求むる思ひは欲といふものなり。・・・欲も情の中の一種なれども、またとりわきては、人をあはれと思ひ、かなしと思ひ・・・の類をなむ情とは言ひける。・・・いかにもあれ、歌は情の方より出で来るものなり。これ、情の方の思ひは物にも感じやすく、あはれなることこよなう深きゆゑなり。欲の方の思ひはひとすぢに願ひ求むる心のみにて・・・はかなき花鳥の色音にも涙のこぼるるばかりは深からず。かの財宝をむさぼるやうの思ひは、この欲といふものにて・・・色を思ふも本は欲より出づれども、ことに情の方に深くかかる思ひにて・・・

→総じて、人の心に様々に湧き起こる思いは、すべて〈情〉である。その思いの中でも、「こうでありたい、ああでありたい」と求める思いは〈欲〉というものである。・・・〈欲〉も〈情〉の一種ではあるが、また特に、人を恋しく思い、愛しく思い・・・の類いを〈情〉と言った。・・・「いかにもあれ」、歌は〈情〉の方から出てくるものである。これは、〈情〉の方の思いは物事に感じやすく、しみじみとした感興がこの上なく深いためである。〈欲〉の方の思いはひたすら願い求めるだけの心で・・・「ちょっとした花の色や鳥の鳴き声にも涙がこぼれる」というほどに深い感動ではない。あの財宝をむさぼるような思いというのは、この〈欲〉というものであって・・・恋を思う心も、元々は〈欲〉から生まれ出るものだが、特に〈情〉の方に深く関わる思いであり・・・

ということで、やはり読む前に想像した通りです。問4の選択肢。

①「情」と「欲」はいずれも恋に関わる感情であり、人に深い感慨を生じさせる。ただし、悲しい、つらいといった、自分自身についての思いを生じさせるものが「情」であるのに対し、哀れだ、いとしいといった、恋の相手についての思いを生じさせるものが「欲」である。恋において「情」と「欲」は対照的な関係にあると言える
②「情」は「欲」を包含する感情であるが、両者を強いて区別すれば、「情」は何かから感受する受動的なものである。これに対して「欲」は何かに向かう能動的な感情であり、その何かを我がものにしたいという行為を伴う。したがって、恋は「情」からはじまり、やがて「欲」へと変化する
③人の心に生まれるすべての思いは「情」であるが、特には、誰かをいとしく思ったり鳥の鳴き声に涙したりするなど、身にしみる細やかな思いを指す。一方、我が身の繁栄や財宝を望むなど、何かを願い求める思いは「欲」にあたる。恋は「欲」と「情」の双方に関わる感情だが、「欲」よりも「情」に密接に関わっている。
④人の心に生じる様々な感情はすべて「情」である。一方、「欲」は何かを願い求める感情のことであり、「情」の中の一つに過ぎない。もともと恋は誰かと一緒にいたいという「欲」に分類される感情だが、恋を成就させるには「欲」だけではなく様々な感情が必要なので、「情」にも通じるべきである
「情」は自然を賛美する心とつながるものであり、たいへん繊細な感情である。しかし、「欲」は自然よりも人間の作った価値観に重きを置くので、経済的に裕福になることをひたすら願うことになる。恋は花や鳥を愛するような心から生まれるものであって、「欲」を源にすることはない

①⑤は何を言っているのか分からないゴミみたいな選択肢です。特に⑤は全面的にゴミ。

②…〈情〉と〈欲〉の違いが受動的or能動的という説明はされていない。また、「恋は〈情〉からはじまり、やがて〈欲〉へと変化する」というのも、どちらかと言えば逆です。

④…そもそも歌論です。笑 恋愛成就の方法などはどこにも述べられていません。

また、「いかにもあれ」は傍線(イ)で、問1の訳を選ぶ問題です。

①言うまでもなく
②そうではあるが
③どのようであっても
④どういうわけか
⑤どうにかしてでも

「いかにも」+「あれ」です。

「いかにも」は「どのようにでも」の意味、「あれ」は「あり」の命令形です。

「命令形」の用法は何も命令するだけではありません。命令の他に、「許容/放任」の意味を表すこともあります。現代語でも「何にせよ」という言い方がありますが、「せよ」は命令形ですよね?でもこの表現は命令しているのではなく、「いずれにしても」という意味で、「何でもいいんだけど、どっちみち」ということで、許容の意味を含んでいると言えるでしょう。今回もそれと同様で、③が正解となります。訳に当てはめてみてもバッチリ通りますね。

さて、今の段落の中に、中略で飛ばしましたが文法問題もありました。


問2 波線部「身にしむばかり細やかにはあらねばにや」についての文法的な説明として適当でないものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。


①打消の助動詞「ず」が一度用いられている。
②断定の助動詞「なり」が一度用いられている。
③仮定条件を表す接続助詞「ば」が一度用いられている。
④疑問を表す係助詞「や」が一度用いられている。
⑤格助詞「に」が一度用いられている。

波線部を品詞で切るとこうなります。

身|に|しむ|ばかり|細やかに|は|あら|ね|ば|に|や

●身…名詞
●に…格助詞
●しむ…マ行四段活用の動詞「しむ」終止形
●ばかり…副助詞
●細やかに…ナリ活用の形容動詞「細やかなり」連用形
●は…係助詞
●あら…ラ行変格活用の補助動詞「あり」未然形
●ね…打消の助動詞「ず」已然形
●ば…順接確定条件の接続助詞「ば」
●に…断定の助動詞「なり」連用形
●や…係助詞

かなり初歩的な文法事項である接続助詞「ば」についての知識が問われています。

A:未然形+「ば」⇒順接仮定条件
B:已然形+「ば」⇒順接確定条件

でしたね。今回は「ば」の上にあるのが已然形なので仮定ではなく確定条件でした。


問5 「情」と「欲」の、時代による違いと歌との関係について、本文ではどのように述べているか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。


これは次の第5段落に書かれている内容です。

情の方は・・・心弱きを恥づる後の世のならはしにつつみ忍ぶこと多きゆゑに、かへりて欲より浅くも見ゆるなめり。されど、この歌のみは上つ代の心ばへを失はず。

→〈情〉の方は・・・心が弱いのを恥とする後世の習性によって(その心を)包み隠して(表に出さないように)耐えることが多いせいで、かえって〈欲〉よりも浅いものに見えるのであるようだ。しかし、この「歌」というものだけは上代の心を失っていない。

つまり、時代が下るにつれ、日常生活の中で恋に関することや美しい景観に触れることに感動するという〈情〉を表に出すことを「恥」と考えるようになったのだ、しかし、和歌という文化だけは上代から続く精神的な伝統を失わずに保持しているのだ、と言っています。

人の「情」のあり方は上代から変わっていないが、「欲」のあり方は変わった。恋の歌は「情」と「欲」の両者に支えられているため、後世の恋の歌は、上代の恋の歌とは性質を異にしている。
「情」は「欲」に比べると弱々しい感情なので、時代が経つにつれて人々の心から消えていった。しかし、歌の世界においては伝統的に「情」が重んじられてきたので、今でも歌の中にだけは「情」が息づいている。
③人は恋の歌を詠むときに自らの「情」と向き合うため、恋の歌が盛んだった時代には、人々の「情」も豊かにはぐくまれた。後世、恋の歌が衰退してくると、人々の「情」は後退し、「欲」が肥大してしまった
④「情」は「欲」より浅いものと見られがちであるが、これは後世において「情」を心弱いものと恥じて、表に出さないようになったからである。しかし、歌の世界においては上代から一貫して「情」を恥じることがなかった。
⑤『万葉集』に酒を詠んだ歌があるように、歌はもともとは「欲」にもとづいて詠まれていた。しかし、しだいに「情」を中心に据えて優美な世界を詠まねばならないことになり、『万葉集』の歌が振り返られることはなくなった

⑤の酒の話は次の最終段落にちょっと出てきますが、ここでは何の関係もありません。

ではこのまま最終段落にいきましょう。

『万葉集』の三の巻に「酒を讃めたる歌」の類よ、詩には常のことにて、かかる類のみ多かれど、歌にはいと心づきなく憎くさへ思はれて、さらになつかしからず。何の見所も無しかし。これ、欲はきたなき思ひにて、あはれならざるゆゑなり。しかるを人の国には、あはれなる情をば恥ぢ隠して、きたなき欲をしもいみじきものにいひ合へるはいかなることぞや。

→『万葉集』の第三巻にある「酒を褒め讃えた歌」の類いよ、漢詩ではよくある内容のもので、そのような類いのものばかりが多いが、和歌では非常に気にくわなく、憎くさえ思われて、「さらになつかしからず」。何の見所もないよ。それは、〈欲〉は汚い精神で、しみじみと感じ入るようなものがないからである。それなのに、よその国(中国)では、しみじみと心を動かされる〈情〉の方を恥に思って隠して、汚い〈欲〉の方を素晴らしいものとしているのはどういうことか。

まず傍線(ウ)「さらになつかしからず」の訳を選ぶ問1です。

①あまり共感できない
②どうにも思い出せない
③なんとなく親しみがわかない
④ますます興味がわかない
⑤全く心ひかれない

「さらに・・・打消」は名高い副詞の呼応表現で、「まったく/決して~ない」の意味を表します。

また、「なつかし」はスーパー重要語で「①心惹かれる②親しみやすい」の意味を覚えます。

ということで、一瞬で⑤に決まりますね。文脈に照らしてもバッチリです。


問6 歌や詩は「物のあはれ」とどのように関わっているのか。本文での説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。


①歌は「物のあはれ」を動機として詠まれ、詩は「欲」を動機として詠まれる。しかし、何を「あはれ」の対象とし、何を「欲」の対象とするかは国によって異なるので、歌と詩が同じ対象をよむこともあり得る。
②上代から今に至るまで、人は優美な歌を詠もうとするときに「物のあはれ」を重視してきたが、一方で、詩の影響を受けるあまり、「欲」を断ち切れずに歌を詠むこともあった
歌は「物のあはれ」に関わる気持ちしか表すことができない。そこで、一途に願い求める気持ちを表すときは、歌に変わって詩が詠まれるようになった
④「情」は生きている物すべてが有するものだが、とりわけ人は「物のあはれ」を知る存在である。歌は「物のあはれ」から生まれるものであって、「欲」を重視する詩とは大きな隔たりがある。
歌も詩も「物のあはれ」を知ることから詠まれるが、詩では、「物のあはれ」が直接表現されることを恥じて避ける傾向があるため、簡単には「物のあはれ」を感受できない

これは全体の内容と絡んでいるので内容一致問題です。④の「とりわけ人は~」のあたりは、第4段落に「色を思ふも本は欲より出づれども、ことに情の方に深くかかる思ひにて、生きとし生けるもののまぬかれぬものなり。まして人はすぐれて物のあはれを知るものにしあれば~」という部分の内容です。


以上です。

今年は選択肢をヒントにして賢く選ぶ、ということではなく、本文をきちんと読解して答えを出していくという正攻法でいくしかありませんでした。

本文が難しいわけではないのですが、読み慣れていない人が付け焼き刃でやっても刃が立たなかったかと思います。

理系の人も厳しかったかもしれませんね。

では、これで2018年のセンター古文の解説を終わります。

 

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