~前回のあらすじ~
帝にはめちゃめちゃ可愛がっているメス猫がいて「命婦のおとど」と名づけられていました。命婦のおとどの世話役は「馬の命婦」という女官です。ある日、縁側に寝そべっている命婦のおとどを部屋に入れようと思った馬の命婦は、犬の翁丸をけしかけて命婦のおとどを襲わせました。命婦のおとどが怯えて帝のもとに駆け込むと、激怒した帝は翁丸を叩きのめして追放するよう命じ、馬の命婦も厳しく糾弾されてしまうのでした。
さて、翁丸はどうなってしまうのでしょうか、続きをどうぞ。
【現代語訳】
「お食事時には必ず皇后様の向かい側に控えていたのに。寂しいわ」
なんて話しているうちに、三、四日が過ぎたお昼ごろ、激しい犬の鳴き声が聞こえるので、「こんなにいつまでも鳴いているのはどんな犬かしら」と思っていると、たくさんの犬が様子を見に駆けて行ったわ。
すると、御厠人がこちらに走って来て、
「ああ、ひどいことです。犬を蔵人が二人がかりで叩きのめしています。あれではきっと死んでしまうでしょう。帝が追放なさったのに帰ってきたというので、懲らしめていらっしゃるようです」
と言うのは、可哀想に、翁丸に間違いない…。
乱暴しているのは忠隆、実房たちだと言うので、やめさせるように人を向かわせると、やっと鳴きやんだの。
でも、
「死んだので門の外に捨ててしまいました」
なんて使いの者が言うものだから、可哀想で可哀想で…。
その夕方、痛ましく腫れあがったひどくみすぼらしい姿の犬が、震えながらうろついていたの。
「翁丸かしら。こんな犬は最近見かけないけど…」
というので、私が、
「翁丸?」
と呼びかけてみたんだけれど、まったく反応がなかったのね。
「翁丸よ」
「いや違うわ」
なんてみんなが口々に言うから、とうとう皇后様が、
「右近なら分かるでしょう。お呼びなさい」
とお呼びになって、右近が参上したの。
皇后様が直々に、
「この犬は翁丸ですか」
とお見せになると、
「似てはおりますが、これは何やら不気味な感じがするようです。それに、本物なら『翁丸か?』と言うだけで喜んで寄って参りますが、この犬は呼んでも近づいてきません。違うと思います。そもそも、翁丸は殺して捨ててしまったと申しておりました。大の男が二人がかりで叩きのめしたら、とても生きていられないでしょう」
などと申し上げるので、皇后様は胸を痛めていらっしゃったわ。
翁丸死んだ説!
エェェェヽ(゚Д゚;)ノ゙ェェェエ
でもこのボコボコにされて腫れあがった犬、同時に2匹もいるのでしょうか?
ということで女房の意見も分かれていたのですが、果たして右近の見解は正しいのでしょうか?
さて、皇后様というのは藤原定子です。
『枕草子』といえば“中宮”定子だろう、と思う方もいるでしょうが、わけがあります。
この記事の出来事は西暦1,000年(長保二年)の3月だろう、と言われています。
西暦1,000年の2月25日に、道長の娘・彰子が中宮の座についており、定子は皇后となっていました。
もともとは中宮と皇后はまったく同じだったのですが、定子の父である藤原道隆が皇后と中宮を別のものと分けてしまっていたのです。
ちなみに、この頃、すでにその道隆も5年ほど前に他界しており、道隆の一族(中の関白家)は勢いを失ってしまっていた時期です。
今回はこれ以上その話はやめておきましょう。
あと、冒頭に出てきた御厠人みかわやうど。
トイレ関係の人なのは漢字で分かると思いますが、宮中でトイレ掃除を担当した最下級の女官で、辞書を引くと「ひすまし」とも呼ばれた、と書かれています。
そして「ひすまし」を引いてみると【桶洗し・桶清し】と漢字を当てています。
なるほど、便をする「桶」を「洗う/清める人」ということですね。
【原文】
「御膳のをりはかならず向ひさぶらふに、さうざうしうこそあれ」
などいひて、三四日になりぬる昼つ方、犬いみじう鳴く声のすれば、何ぞの犬のかく久しう鳴くにかあらむと聞くに、よろづの犬とぶらひ見に行く。
御厠人なる者走り来て、
「あないみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ。死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、帰り参りたるとて、てうじ給ふ」
といふ。
心憂のことや、翁丸なり。
「忠隆、実房なんど打つ」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみ、
「死にければ陣の外に捨てつ」
といへば、あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、
「翁丸か。このごろかかる犬やはありく」
といふに、
「翁丸」
といへど、聞きも入れず。
「それ」ともいひ、「あらず」とも口々申せば、
「右近ぞ見知りたる。呼べ」
とて召せば、参りたり。
「これは翁丸か」
と見せさせ給ふ。
「似ては侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また、『翁丸か』とだに言へば、よろこびてまうで来るものを、呼べど寄り来ず。あらぬなめり。それは『打ち殺して捨て侍りぬ』とこそ申しつれ。二人して打たむには侍りなむや」
など申せば、心憂がらせ給ふ。
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