乳母の子たちは、母が泣く様を見て、とても見苦しいことだと思い、
「出家をしたのに、まだ俗世に未練があるようで、醜い泣き顔を光る君様のお目にかけるとは」
とひそひそ話して眉をひそめあっていました。
光る君はたいそうしんみりとしたお気持ちになって、
「幼かったころに、母も祖母も私を置いてあの世へ旅立ってしまわれ、心にぽっかり穴があいたようで、
育ててくれる人はたくさんいるようではありましたが、心から慕わしく思ったのはあなたの他にいませんでした。
成人してからは、制限もあってなかなかお会いできず、思うがままに訪れるわけにもいきませんでしたが、
やはり長い間顔を合わせずにいると心細く思われたので、
業平の歌にもあるように、この世に死別などというものがなければいいのに、と思っております」
など、心をこめてお話しになり、涙を拭いなさる時に、
光る君の袖から、焚きしめたお香の素晴らしい匂いがたち、部屋に充満してくるので、
なるほど、考えてみればこれほどのお方の乳母になったというのは、
並々ならぬ前世からの縁があったということだよな、と思い返し、
初めは乳母のことをみっともないと見下げていた子たちも涙をこぼしておりました。
「祈祷などをまた始めるように」などと指示なさって光る君はお帰りになります。
惟光に紙燭を持ってこさせ、先ほどの扇をご覧になると、
女がいつも持っていたようで、その移り香がとても深く染み込んでいるのが慕わしく、
また、そこには心にまかせて趣深くこう書かれてありました。
心あてにそれかとぞ見る白露のひかりそへたる夕顔の花
〔白露のように光り輝くあなたが眩しくてはっきりとは見えず、当てずっぽうですが、今あなたが摘み取ったのは夕顔の花でしょうか。―ひょっとしてあなた様はあの光る君様ではありませんか―〕
何ということもなく、わざと乱れた風に書いているものの、上品で由緒ある感じがするので、
その意外さに興味を覚えなさる光る君でございました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
最後に女からの歌が紹介されました。
前回、光る君が従者に摘ませた夕顔は、家の者が差し出した扇に乗せられて光る君に届きました。
その扇に書かれていた和歌です。
この歌は、
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
〔当てずっぽうに折るというなら折ってしまおうか。初霜がおりて一面真っ白になり、見分けがつかなくなってしまった白菊の花を〕
という非常に有名な歌が下敷きになっているものです。
『古今和歌集』の撰者の一人でもある凡河内躬恒おおしこうちのみつねの歌です。
躬恒の歌は分かりやすいのですが、『源氏』の歌はやや難解です。
「それかとぞ見る」の「それ」が何を指しているのか、古来多くの説があるようです。
この文を最初に読んだとき、「それ」は光源氏のことかと思いました。
そして、そう解釈している説も多くあるようなのです。
しかし、初句と二句はそれでうまく訳せます。
当てずっぽうですが、あなたはあの有名なお方(=光源氏)かとお見受けいたします。
とこんな感じになるかと思いましたが、これだと三句目以降とまったくつながりません。
二句目に文末がある歌(二句切れ)ですが、句切れのある歌は倒置で解釈するものが多いのです。
今回も、そう考えた方が自然だろうと思いました。
当てずっぽうですけど、あなたが折ったその花、それは夕顔ですよね?
とこう解釈した方が自然なのではないかと。
「ひかり添えたる」の「ひかり」は光源氏を暗示したものでしょう。
そんなことを一人で思っていても間違っていたら仕方ないので、
裏付けを探すと、こちらのサイトがすぐに出てきました。
まったく同じ解釈をされているわけではありませんが。
まあまあ、何はともあれ、光源氏が夕顔に接近していくきっかけが発生したところで今回はおしまいです。
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