どんなに思っても飽き足りなかったのに、はかなくこの世を去ってしまった夕顔の女に先立たれた未練は、年月が経っても捨て去ることがおできにならず、ご内室も六条の愛人も、気を許さず、気取った心で気が強いので、気楽で親しみやすかった愛しさから、かけがえのない存在だったと恋しく思い出しなさるのでした。
「どうにか、おおげさな評判がたっていなくて、とてもかわいらしく、遠慮もいらないような女を見つけたいものだ」
と、性懲りもなく思い続けていらっしゃるので、少し由緒ありげで評判になっている女の噂はすべて耳にとまっていらっしゃって、それでも良い女かもしれない、と期待できるような雰囲気があるあたりには、ちょっとした手紙を送ってそれとなく恋心をにおわせなさるようで、すると、それを受け取っても心を動かされず、距離を置く女などほとんどおりません。これまでにもさんざん見てきたことではありますが。
光る君にお声をかけられても平然としている気の強い女は、例えようもないほど情けが浅く、真面目一辺倒であまり恋の情趣を知らないと思われ、そのくせ、そのような姿勢を最後まで通すこともできず、いつの間にか最初の意地は跡形もなく消え去り、妥協して平凡でつまらない男の妻となる者もいるので、光る君は口説くのをおやめになることもよくありました。そして、あの空蝉の女をふとした拍子に妬ましく思い出しなさるのです。また、軒端荻にも、適当な機会があればお手紙をかいて思い出させることもあるようです。囲碁を打っていた時に火影に見た、あのみだらな姿をまた見たいとお思いになっているのでした。およそ、一度関係を持った女のことをすっかり忘れてしまうことはおできにならない光る君なのでした。[1]
左衛門の乳母という、大弐の乳母の次に光る君が慕っていらした者の娘は、大輔の命婦といって内裏に勤めており、天皇家の血筋である兵部の大輔が父親でした。その大輔の命婦はたいそう色好みな女で年も若く、光る君は召し寄せてたびたび使っていらっしゃいました。左衛門の乳母は、兵部の大輔と別れ、今は再婚して筑前の守の妻となり、任国へ同行していたので、娘は父親の家を実家として、内裏に出仕しております。
ある日、大輔の命婦が、亡き常陸の親王が大切に育てていた末の娘が独り身で心細く生活しているという話を何かのついでに光る君にお話ししたところ、気の毒なことだと思って、あれこれ尋ね聞きなさいました。
「気立てや器量など、詳しいことは存じ上げておりません。身をひそめ、人を近くにお寄せにならない方でして、宵に簾越しにお話しすることはございます。琴を気の置けない話し相手と思っておいでのようです」
と申し上げると、
「琴・詩・酒を“三友”というが、女は酒は好むまい。よし、その琴を聞けるよう手配いたせ。亡き父親王が音楽の方面に嗜みのあるかたでいらしたから、姫君も並々でない琴の弾き手だろう」
とおっしゃるのでした。
「ご期待にそえる程ではないと思いますよ」
と言うと、
「随分と含みを持たせた言い方だね。おぼろ月夜に紛れて密かに訪ねよう。手引きを頼む」
とおっしゃるので、面倒なことを、とは思いましたが、することもないのどかな春の日に内裏を出て例の姫君の邸宅へ出かけました。現在、父の兵部の大輔は、新しい妻の家で暮らしており、娘の命婦とは同居しておりません。命婦は、父が暮らす継母の邸には寄りつかず、この姫君を慕って時々通っているのでした。[2]
光る君は、おっしゃった通り、十六夜の月が趣深く出ている中、お出でになりました。
「とてもお気の毒なことですよ。澄んだ音色が出そうにもない夜ですのに」
と申し上げましたが、
「向こうに行って、一声おかけして弾くように促してきなさい。空しく帰るのは癪なことだよ」
とおっしゃるので、くつろいだ部屋に光る君をお残しして、気が引けるし、畏れ多いと思いつつも寝殿に参上したところ、まだ格子も下ろさず、庭に咲く芳しい香の梅の木を眺めていらっしゃいました。ちょうど良いと思って、
「今夜は琴の音色もどんなにか聴き映えすることでしょう、と思ってやって参りました。いつもはせわしない訪問でお聞きできず、残念に思っておりました」
というと、
「聴いて分かる人のようですね。内裏に勤めている人に聴かせるほどのものではありませんが」
といって琴をお取り寄せになったので、ただもう光る君がどうお聞きになるだろうかと、胸の潰れる思いがするばかりでした。
姫君がかすかに琴を掻き鳴らしなさると、素晴らしく響きました。特別に技術が優れているわけではありませんでしたが、楽器の性質上、光る君もその音色が悪いとはお思いになっておりません。
たいそうひどく荒れて寂しい邸に、これほどの人が古めかしく窮屈そうに暮らしていて、大事に育てられていていた名残もなく、どんなにか無念なことでしょう。
このような所にこそ、昔の物語でもしみじみ胸を打つようなことがおこるものだ、などと思い続け、姫君に声を掛けてみようかな、ともお思いになったのですが、唐突だとお思いになるだろうと気が引けて、ためらっていらっしゃいました。[3]
利発な命婦は、それほど名手というわけでもないのをあまり長くは聴かせまいと思ったので、
「曇りがちなようですね。そういえば、今夜は客人が私を訪ねて来ると言っておりました。そろそろ戻りますね、客人を避けているように思われては困りますから。また後日ゆっくりとお聴かせください。さ、格子を下ろして差し上げましょう」
といって、そんなには琴を弾かせずに帰ったので、
「中途半端なところでやめたものだな。まだその技量を見極めていないのに。くそっ」
とおっしゃった様子は、たいそう興味深くおもっていらっしゃるようでした。
「せっかくだからもっと近くで立ち聞きさせなさい」
とおっしゃったのですが、興味を持っているところでとめておきたいと思ったので、
「いやいや、たいそう心細い様子で、心が消えるほどに深く思い込んで心苦しそうにしていらっしゃるので、お引き合わせするのは心配です」
と申し上げると、
「それもそうだ。私も姫君も、いきなり馴れ馴れしく語らうような身分ではないのだから」としみじみお思いになって、
「私の気持ちをほのめかしてそれとなく伝えよ」
とお命じになって、他にお約束している女性がいたのでしょうか、たいそう密やかにお帰りになりました。
「上様が、光る君様のことを真面目でいらっしゃるとお悩みになっているのがおかしく思われることがあります。お忍びであちこちお出かけになるこんな姿を御覧になったことはないのでしょうからね」
と申し上げると、引き返してきて、笑いながら、
「他の人みたいに私の罪を言いふらしてはいけないよ。私のことを浮気な振る舞いだと言うなら、お前だって」
とおっしゃいました。
命婦は光る君が時折このように自分のことを好色だとおっしゃるのを気恥ずかしく思って何も言いません。[4]
寝殿の姫君が私の気配に気づいてしまうかもしれない、とお思いになった光る君は静かに外へ退出なさいました。透い垣の少し折れ残っている辺りに近寄ってみると、身を潜めて立っている男がいました。
誰だろう、ここの姫君に思いを寄せる好色者がいたんだな、とお思いになって、物陰に姿をお隠しになりました。
何と、その男の正体は頭の中将だったのです。実は、この日の夕方、頭の中将は光る君と一緒に内裏を退きなさったのですが、光る君が左大臣邸にも寄らず、二条の自邸にも帰らずにお別れになったので、どこへ行くつもりだろう、と気になって、本当はご自身も行くところがあったのですが、後をつけて光る君の行方をつきとめていたのです。貧相な馬に狩衣姿の無造作な格好でやって来ていたので、光る君はお気づきにならなかったのでした。
光る君がこのように意外な家にお入りになったので、頭の中将は不審に思っていつつ、琴の音色に聴き入って立ちながら、光る君が出てこないかと心待ちにしておりました。光る君は、この男が頭の中将であることが分からないまま、自分の正体を知られまいと抜き足差し足そっと遠ざかろうとしなさったのですが、頭の中将の方からさっと近寄り、
「振り捨てなさったつらさに、お送り申し上げたのですよ。
もろともに大内山は出でつれど入るかた見せぬ十六夜の月」
〔一緒に内裏を出たのに、なかなか入るところを見せようとしない十六夜の月のようなあなたでしたね〕
と恨みごとを言うのは腹立たしかったのですが、相手が頭の中将だとお分かりになると、少しおかしくなりました。
「まさかあなただったとはね。驚いた」
と憎みながら、
「里わかぬ影をば見れど行く月のいるさの山を誰かたづぬる」
〔どこも分け隔てなく照らす月が見えても、その月が入る山まで誰が訪ねるだろうか〕
すると、頭の中将は、
「こうして私が後をつけて歩いたら、あなたはどうなさる?」
と申し上げなさるのでした。[5]
「本来、このようなお出かけには随身のような者をつけてこそ、進展することもあるでしょう。私を置いていかない方が良いですよ。身をやつした出歩きは危険なことがおこりがちです」
と、逆に光る君をお諫め申し上げました。こんな風に見つかってしまったことを、癪なことだとはお思いになりましたが、頭の中将と亡き夕顔の間に生まれた娘を、頭の中将は見つけ出せずにいるのに、ご自分はその情報をお持ちになっていることを、お心の内に思い出して優越感を感じていらっしゃるのでした。
お二人は、約束をした女の所にもきまり悪くて行くことがおできにならず、車に相乗りして、趣深く月が雲に隠れた中、笛を吹きながら左大臣邸にいらっしゃいました。先払いなどもさせなさらず、そっとお入りになると、人目のない廊下で御直衣にお着替えになり、平然と今やってきたように振る舞って御笛を気ままに吹きながらお出でになったので、義父の左大臣殿は例によって聞き逃しなさらず、高麗笛を手にとってお出ましになりました。
左大臣殿は大変な笛の名手だったので、非常に趣深くお吹きになると、ご内室様は御琴などをお取り寄せになり、上手な女房たちにお弾かせになります。女房の一人である中務の君は、本当は琵琶が得意だったのですが、頭の中将に思いを寄せられていたのは振り捨て、光る君がたまに目を掛けてくださるのは拒み申し上げることができなくて、自然とそれが噂となり漏れて、ご内室様の母宮様なども、この中務の君をけしからぬ者だとお思いになっていたので、物思いに沈み、中途半端な心持ちでつまらなそうに端の方に寄りかかっておりました。光る君にまったくお会いできない他の方にお仕えし直すというのも、さすがに寂しくて思い乱れているのでした。[6]
光る君と頭の中将は、先ほどの常陸の親王の姫君の琴の音色を思い出しなさっておりました。しみじみ心細い感じのお屋敷だったのも一風変わって面白く思われ、
「もし仮に、たいそうかわいらしい女が、あの侘びしげなまま年月を過ごしていたとして、その時に関係を持って、非常に心苦しいことになれば、人にも騒がれてみっともない思いをするかもしれない」
などということまで思っていた頭の中将は、光る君がこうして恋心を見せてお通いになっているのにつけても、このまま何もなさらぬわけはないだろう、と思って憎らしく、心配しておりました。
そしてこの後、両人ともお手紙をお送りになったようですが、しかし、どちらにも返事がありません。じれったく、また不愉快にも思われて、
「あまりに厭わしいことだ。あのような邸に住んでいる人は、物の情趣というものを知っていて、ちょっとした木や草、空の景色などにつけて和歌を詠んだりするもので、それによって心が推しはかられることがあるのが良いのに。重々しい家柄の方だとしても、こんなにも引き下がっているようでは気に入らないし、がっかりだよ」
と、頭の中将は光る君以上にいらいらしているのでした。例によって、光る君には隠し立てをなさらないので、
「あの姫君から返事はありましたか?私の方には返事もなく、いたたまれない感じで終わってしまった」
と愚痴をこぼすと、光る君は、「やはりな。この男も言い寄っていたのだ」と微笑んで、
「さあどうだったかな。返事が欲しいとも思っていなかったから、あったような、なかったような」
と返事をなさるので、姫君が対応を区別したのだと思って、腹を立てていました。
光る君は、深くは気に留めてもいない女がこのように冷淡なのを興ざめに思っていらっしゃったのですが、こうして頭の中将が言い寄っていたのを、
「女性を口説き慣れているこの人に靡いてしまうだろうな。得意気に、最初に思いを寄せた私のことを振り捨てるとしたら惨めだろう」
とお思いになって、大輔の命婦と真剣に相談なさるのでした。[7]
「はっきりした返事もなく、私を遠ざけたのはとても気が滅入ることだ。きっと私を好色な者だと疑っていらっしゃるのだろう。いくら私でも短絡的な恋はしないというのに。いつだって女の方に穏やかな心がないために思いがけない破局を迎えるだけなのだが、それも自然と私の罪ということにされてしまうのだろう。穏やかで、もてあましたり恨んだりする面倒な親兄弟もなく、気が楽な人はかえってかわいいだろうに」
とおっしゃると、
「いやいや、そんな風に光る君様のように立派な方が身をお寄せになるほどの方ではないでしょう。とても釣り合わないように思えます。あそこまで遠慮がちに引っ込み思案な方というのも珍しいことです」
と、自分が見た有り様をお話し申し上げました。
「洗練された所もなく、また才能が感じられるような所もないみたいだね。でもまあ、あどけなくおっとりとした所があれば、かわいいだろう」
と、お忘れになることなくおっしゃいます。
その後、以前にお話しに出てきたように熱病を患いなさり、人には言えない藤壺の宮様との恋の物思いもあって、お心にはまったく暇もないまま春・夏と過ぎて行きました。[8]
秋になると、光る君は心静かに思い続けなさり、砧を打つの音も、昔は耳障りだったのですが、今では夕顔の女を思い出すよすがとして恋しく感じられるのでした。常陸の親王の姫君の所へは度々お手紙をおやりになるのですが、依然として返事がないので、姫君の世慣れないことにいらいらし、このまま引き下がるわけにはいかない、というお心まで加わって、大輔の命婦をお責めになりました。
「どうなっているんだ。いまだかつてこんなことは経験したことがない」
と、たいそう不愉快に思っておっしゃると、命婦は気の毒に思って、
「かけ離れていて似つかわしくない、とは申し上げておりません。ただ、まるで引っ込み思案でどうしようもなくてお返事を出せずにいらっしゃるように見えます」
と申し上げたところ、
「それが世慣れていないというんだよ。物心がついていない幼い頃とか、一人で思い通りに行動できない頃ならそのように恥ずかしがるのも当然だ。どんなことにも、気持ちが平静でいらっしゃるように思われる。いつも何となく寂しく心細くばかり思っている私と同じ心で返事をくださったら、いかにも願いがかなったという心地がするだろう。やたらと男慣れしていな人の所で、荒れた庭先の縁側にたたずんでみたいのだ。あの態度は非常にじれったく、理解できないから、お許しがなくとも手引きせよ。お前が苛立たしく思うような、不埒な振る舞いはまさかしないよ」
などと語りなさるのでした。[9]
世の女性について、当たり前のように情報収集する癖がついていらっしゃった光る君ですが、特にすることもなかった退屈な宵、何かの拍子に常陸の姫君のことを申し上げたばっかりに、このようにしつこくおっしゃり続けるので、大輔の命婦は面倒で煩わしく、
「姫君の御様子も、光る君に似つかわしくなく、風流でもないのに、なまじっか自分が手引きしてしまったら、姫君にとってお気の毒なことになるのでは…」
などと思ったのですが、光る君がこんなにも熱心に手引きせよとおっしゃるので、聞き入れないというのも可愛げがない気がして、姫君の父親王がご存命だったころでさえ、古びたあの邸を訪れ申し上げる人もいなくて、まして、今となっては好き放題に生えた浅茅をわけながらやって来る人などいるはずもなかったのに、このように世にも珍しいお方から時折お手紙が届くので、未熟な女房たちはにやけつつ、
「やはりお返事を差し上げなさいませ」
と催促し申し上げるのですが、呆れるほど気後れなさる御性格の姫君は、まったくお読みにすらならないのでした。
命婦は、
「では、適当な折に、簾越しに光る君がお話しなさるようにして、意に染まなければそれでお仕舞いになってしまえばいいだけのことだわ。もし仮に運命が定めるところでお通いになることになったとしても、お咎めになる人もいないし」
などと、浮気めいた心で先走り、父親の兵部大輔にも相談しないのでした。[10]
八月の二十日過ぎ、宵が過ぎるまでなかなか月が出ないもどかしさに、星の光ばかりが明々として、松の枝に吹きつける風の音が心細く感じられる中、姫君は昔のことを語り出してお泣きになるのでした。
ちょうど良い機会だなと思った大輔の命婦が光る君にお手紙を差し上げたのでしょうか、例によってたいそうお忍びでいらっしゃいました。
月が次第に高く昇り、荒れた籬のあたりを疎ましく思いつつぼんやりとながめていらっしゃると、命婦に琴を弾くよう促されて、ちょっと掻き鳴らしなさる雰囲気は、悪くありません。
もう少し親しみやすくて今風なところを身につけさせたいものね、と乱れた心中でじれったく思っていました。
人目のない邸だったので、光る君は気楽に侵入なさり、命婦をお呼びになります。命婦は、今初めて知ったという顔で驚いてみせ、
「とてもお気の毒なことですわ、光る君様がいらっしゃったようでございます。姫様からのお返事がないことをいつもお恨み申し上げていらっしゃるのですが、私にはどうしようもないのですとお断り申し上げていたところ、それでは私みずから道理というものを教えて差し上げよう、とずっとおっしゃっていたのです。どうお返事を申し上げましょうか?世間にありがちな、軽々しい御振る舞いではないので、心苦しいですが。簾越しに、あのお方がおっしゃることを、お聞きになってくださいませ」
と言うと、非常に恥ずかしがって、
「お話の仕方も知らないのに」
といって、奥の方へ引き下がろうとなさる様子はたいそう初々しい感じがします。[11]
大輔の命婦は笑って、
「そのようにたいそう子どもじみていらっしゃるのが心配でございます。高貴な家柄の方も、親が世話をして後見なさるような時分には、子どもっぽくいらっしゃるのも当然でしょう。でも、ここまで心細い有り様となられてなお男性を遠ざけなさるのはどうかと思いますよ」
と諭しもうしあげと、人の言うことは強く断れない御性格で、
「返事をせずにただお話しを聞いているだけでよいなら。格子は下ろして会いましょう」
とおっしゃいましたが、
「光る君様を縁側にお通しするわけにはまいりません。強引に、軽々しい御振る舞いなどをなさる方ではありませんから」
などと、良いように言いくるめると、二間の端にある襖障子をしっかりと閉めて座布団を置き、しつらえていくのを、姫君は非常に気が進まなく思っていらっしゃいましたが、光る君のような方とお話しする心構えなど知るよしもございませんでしたので、命婦がこのように言うのを、わけがあるのだろうと思っていらっしゃいました。[12]
乳母のような存在の年老いた女房は、夕方から眠たがって部屋に横たわってうとうとしておりました。二、三人の若い女房たちは、世間で評判の光る君の御姿を拝見したくてそわそわしています。女房たちは、姫君を少しはまともなお召し物に着替えさせ申し上げましたが、ご本人は何のお心づもりもなくていらっしゃいました。
光る君は、言葉では語り尽くせない立派なお姿を、人目を避けて目立たないようにしていたのも非常に美しくて、
「この素晴らしさを見る目がある人に見せたいものね。こんな見栄えのしない所はもったいないわ。ああ、お気の毒な光る君様」
と大輔の命婦は思いましたが、姫君がおっとりしていらっしゃることに安心しており、そんなにひどい振る舞いはお見せなさらないだろう、と思っていました。
「これで、いつも手引きをするように責め立てられていたことから私は解放されるけど、その代わり、姫君にお気の毒な物思いの種が芽生えてしまうのだわ」
と思うと、心苦しくもありました。
光る君は、この姫君の人柄を想像して、ひどく上品ぶっている今時の女性よりも格段に奥ゆかしいだろう、と思いこんでいらっしゃるのでした。
あれこれ促された姫君が入り口の襖の方に近寄りなさると、心惹かれる香の薫りがほのかに漂ってきて、おっとりしていらっしゃるのを、
「やはり思った通りの人だ」と光る君は思っていらっしゃいます。
ずっと思い続けてきたのだ、というようなことを言葉巧みにおっしゃるのですが、相変わらずお返事は一向にございません。[13]
どうしようもないな、とお嘆きになった光る君は、
「いくそたび君がしじまに負けぬらむものな言ひそといはぬ頼みに
〔しっかりとは数えていませんが、きっと何十回もあなたのだんまりに負けていることでしょう。話しかけないでください、とまでは言われないことをあてにしてきましたが〕
いっそ、きっぱりとお断りください。このように中途半端なのでは苦しくて」
とおっしゃいました。侍従という、女君の御乳母子の軽率な若い女が、返歌をお詠みにならないのはとてももどかしくみっともないことだと思い、女君に近寄って申し上げました。
「鐘つきてとぢめむことはさすがにて答へま憂きぞかつはあやなき」
〔何もおっしゃらないでくださいとはさすがに言うことができず、とはいえその一方でお返事もしたくないというのは、我ながらわけがわからないことです〕
とあまり重々しくない若々しい声で、人づてではないかのようなふりをして光る君に申し上げると、
「身分の割には馴れ馴れしいな」と思ってお聞きになりましたが、
「やっと口を開いていただけたと思ったら、逆に私の口がふさがってしまいますね。
言はぬをもいふに勝ると知りながら押しこめたるは苦しかりけり」
〔口に出して言わないのは、口に出して言う以上の思いがあるのだと知ってはおりますが、それでも黙っていらっしゃるのは苦しいことですよ〕
他にも、あれこれと他愛ないことでも、時には面白いように、時には真面目にお話しなさるのですが、何の甲斐もございません。
「本当に、こんな態度は普通ではない。心根が他の女性とは違うのだろうか」と癪に障り、そっと襖を開けて中へお入りになってしまいました。[14]
大輔の命婦は、
「ああ、何てこと。私を油断させておいてこんなことを・・・」
と、姫君に申し訳なく気の毒だったので、知らんぷりをして自分の部屋へ下がってしまいました。若い女房たちもまた、光る君のお姿が世に並ぶものがない評判なので、その強引なやり口を非難することもなく、ほとんど嘆きすらいたしませんでした。ただ思いがけない突然のことで、姫君にお心構えもなかったことを心配しておりました。
ご自身は、呆然として気恥ずかしく、気が引ける以外のことはなく、
「今はこのようなのがしみじみ愛しく思えるよ。まだ世慣れぬ女で大事に育てられてきた人が」
と、そのもじもじするばかりの態度をお許しになる一方、よく分からない、どことなくかわいそうな気がするご様子だと感じていらっしゃいました。
それにしても、この姫君のどこに光る君はお心を惹かれていらっしゃるのでしょう。
思わずため息をつきながら、まだ夜も深いうちにお屋敷を出なさいました。
命婦は、どうなることかと眠れずに聞き耳を立てながら横になっていましたが、起きていたことがばれるとまずいので、お見送りいたしましょう、とも言えずにいました。
光る君も、誰にも気づかれぬようそっと密かに出て行かれました。[15]
二条院へお戻りになって横になってもなお、
「男と女というのは思い通りにいかないものだな」
と思い続けなさり、姫君の身分が軽くないことを心苦しく思っていらっしゃいました。
そのように思い乱れていらっしゃるところに頭の中将がお越しになって、
「随分な朝寝坊でいらっしゃいますね。ははぁ、さては何かあったのですね?」
と言うと光る君は起き上がりなさり、
「気楽な独り寝を楽しんでいただけですよ。あなたは内裏からですか?」
とおっしゃると、
「その通り、内裏からそのまま来ました。朱雀院への行幸に向けて、演奏者と舞人とを今日中に選定するようにと昨夜仰せつかったので、父大臣にもお伝えして相談に乗っていただこうと思って退出してきたのです。その後すぐに内裏へ戻るつもりです」
と忙しそうなので、
「では私も一緒に参りましょう」
といってお粥や強飯を頭の中将とともに召し上がると、一台の車に相乗りなさって、
「まだ眠たそうですね。隠し事が多すぎませんか」
と光る君に恨み言を申し上げなさいます。
先ほど頭の中将がおっしゃっていた行幸をひかえて決めごとが多い日だったので、光る君は一日中内裏でお過ごしになりました。[16]
常陸の姫君の所にも、せめて後朝の文だけでも送らねば、と思い出しなさって気の毒になり、夕方に文の使いをお出しになったのでした。
雨も降り出してうっとうしい中、雨宿りでもしに行こうという気にはまったくおなりにならなかったのでしょうか。
姫君のお邸では、後朝の文が来るのを待つ時間もとうにすぎて、命婦も姫君のことをお気の毒なことだと思い、がっかりしていました。ご自身は、気恥ずかしく思うばかりで、後朝の文が夕暮れに届いたことについても、酷いことだとはお分かりにならずにいました。
さて、その光る君の後朝の文には、
「夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさ添ふる宵の雨かな
〔夕霧が晴れる様子もまだ見ないうちに鬱陶しく降る宵の雨だなあ。あなたのお心はさっぱり分からないままですが、この雨では…〕
雨がやむのを待つのは何とじれったいことでしょう」
と書かれておりました。今夜はお出ましにならないことを悟った女房たちは、胸を痛めましたが、
「お返事をお書きください」と催促するのでした。
しかし、ますますお心が乱れていらっしゃって、返歌をお詠みになることができずにいたので、このままでは夜が更けてしまうと思った侍従が、例によって返歌を教えて差し上げました。
「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心にながめせずとも」
〔晴れない夜に月が出るのを待っている私のことを想像してください。同じ心で物思いに沈まないまでも〕
女房たちに責め立てられて、古くなって色あせてしまっている紫色の紙に、筆跡はさすがに力強く立派であるものの、流行遅れの書体で、行の頭と尻を几帳面に揃えて書いていらっしゃいます。
どう思っているのだろうか、とあれこれ想像する光る君の心中は穏やかではありませんでした。[17]
「こういうのを、後悔というのだろうか。とはいえ、こうなってしまったものは仕方ない。気長に構えて最後まで関係を続けよう」
と光る君がお思いになっていることなど知るよしもないので、姫君方ではひどくお嘆きになっておりました。
左大臣殿が夜に内裏を退きなさるのに引きずられて光る君も左大臣邸にいらっしゃいました。朱雀院の行幸に興味津々な左大臣家の御子息が集まって、舞や音楽の談義に花を咲かせたり、舞を習ったりしながら毎日をお過ごしになるのでした。
楽器の音がいつもより耳にうるさくなりました。皆それぞれ張り合うように楽器を鳴らし、いつものような管絃のあそびとは違い、大篳篥、尺八の笛などを大きな音をたてて吹き鳴らし、太鼓まで縁側に転がして持ってきてみずから打ち鳴らしていらっしゃいます。
光る君は忙しくほとんど暇がないようで、本気で思いを寄せている女の所にだけ、人目を盗んでこっそりお出かけになり、常陸の姫君の所にはまったくお出かけにならないまま、秋もすっかり暮れてしまいました。姫君の方では光る君のご来訪を期待しておりましたが、月日は空しく過ぎてゆくのでした。[18]
行幸の日が近づいてきたので、本番に備えた試しの演奏などと大忙しのころ、大輔の命婦が参上しました。
光る君は、
「おお、どうしている?」
などとお尋ねになり、やはり心のどこかでは気の毒だと思っていらっしゃるようでした。命婦が姫君のご様子をお伝えして、
「本当に、このように光る君様のお気持ちが離れているようでは、周りにいる私たちまで心苦しくございます」
と、今にも泣きそうなほどでした。
「奥ゆかしい人だと思わせて終わりにしようと思っていたのを、私が破ってしまったのだ。酷い男だと思っているのだろう」とお思いになる一方で、当の姫君自身の、何も言わずにただ身を潜めていらっしゃる姿に思いを馳せると可哀想で、
「とてもじゃないが、暇がないのだ。仕方ないだろうに…」とお嘆きになりつつも、
「あまりに物を分かっていないようだからお仕置きしてやろうと思ってね」
と微笑みなさったのが若々しく美しいので、命婦もつい微笑まれて、
「女の恨みを買うお年頃なのだわ。女へのお気遣いが少なく、好き放題でいらっしゃるのも無理ないことね」と思いました。
この忙しい時期が過ぎると、姫君のお邸にも時々お出かけになりました。[19]
紫の君を迎え取りなさってからというもの、そのかわいらしさに夢中でいらっしゃり、六条の愛人の所にさえ、ますます足が遠のきなさるようで、まして常陸の姫君の荒涼とした邸などは、常々気に掛かっていらっしゃるものの、お尋ねになる気にならないのは仕方のないことでした。
大袈裟に恥ずかしがって隠している心の内をあばいてやろう、などというお気持ちも起こらないまま時が過ぎて行くのを、また一方では、
「容姿は優れているということもありえるしな。やはり暗い中の手探りだけでは分からないこともあるだろうから、ちゃんと顔を見てみたいものだ」
とお思いになりましたが、あまり堂々と見るのもきまりが悪いものです。
姫君が油断していたある宵に、そっと邸内に忍び込んで、格子の隙間から部屋の中を覗きこみなさいました。しかし、当然ですが姫君のお姿はお見えになりません。
几帳などはひどく傷んでいるものの、ずっと置かれている場所は変わっていないようで、押しやって乱れたりもしていないのではっきり確認できませんが、女房は四五人ほどおりました。
お膳、食器は舶来品でしたが、みっともないばかりで何の風情もなく悲しくなるほどで、女房たちは、主人から離れたところで食べています。
隅の間に、とても寒そうな女房がひどく煤けた白い衣服に汚い褶を腰に結んでいるのは不体裁でした。
垂れ落ちそうになりながら櫛をさしているようなのを目にした光る君は、
「内教坊や内侍所なんかにああいうのがいたな」と面白く思っていらっしゃいます。しかし、自分の身近にそのような者がいようとは夢にも思っていらっしゃいませんでした。[20]
「ああ、それにしても今年は寒いですね。長生きするとこういう年にも巡り合うものだわ」
といって泣いている女房もいれば、
「亡き父宮様がご存命のころ、どうして辛いと思ったのでしょう。こうして何のあてがなくても過ごせるものなのですねえ」
といって、空を飛ぶのではないかと思うほど寒さに身震いをする女房もおりました。皆あれこれとみっともないことを嘆きあっています。
それをお聞きになるのさえも耐えがたく思われてそこを離れると、今いらっしゃったかのように格子をお叩きになりました。
あらあら、などと言って改めて火を灯し、格子を上げて光る君をお入れ申し上げました。
乳母の侍従は斎院にも通う若者だったので、この頃は留守にしているのでした。いっそう珍妙で田舎めいた感じがして、身に馴染みません。
先ほど年老いた女房が寒いのを嫌がっていましたが、雪はますます激しく降ってきました。
大荒れの空模様で風は吹き荒れ、灯火が消えてしまいましたが、ともす人もおりません。かつて夕顔の女が物の怪に襲われた夜が思い出されました。荒れているという点ではあの時の院にも引けを取りません。
邸が狭く、少し人気があるのに心を落ち着けましたが、寒々しく嫌な感じがして、寝てもすぐに目が覚めそうな夜でした。
面白く、またしみじみと趣深く変わった景色に、普通なら心にとまりそうなものを、姫君がたいそう陰気で愛嬌に乏しく、何の魅力も感じないことにがっかりしていらっしゃいます。[21]
ようやく夜が明けたようなので、光る君みずから格子を上げて庭の草木に降り積もった雪をご覧になります。人の足跡もなく、広々と荒れわたって非常に寂寥としているので、このまま姫君を振り捨てて行くのもかわいそうな気がして、
「こちらへ来て風情のある空でもご覧なさい。いつまでもお心を隔てていらっしゃるのがつらく思われますよ」
と恨み言を申し上げなさいました。まだ薄暗いけれど、雪明かりで光る君がいっそう若く美しくお見えになるのを、年配の女房たちは満面の笑みを浮かべながら拝見しております。
「早くお出でなさいませ。いつまでもそうしていらっしゃっては見苦しくございます。女は素直なのこそが一番です」
などと諭し申し上げると、姫君は人の言うことを拒めない御性分なので、あたふたと身支度を整えて光る君の方に進み出なさるのでした。
光る君は正面からは顔を見ないようにして外の景色を眺めていらっしゃいましたが、横目にちらっと見る限り、そのお姿は普通ではないようでした。
「どうだろう、親しい間柄になって、よく見たら美しいというようなところが少しでもあれば嬉しいだろうに」
とお思いになるのは、自分勝手であまりにも都合の良いお考えです。
姫君は、まず胴長で座高が高くお見えになったので、やはりだめか…と胸がどきどきしてきました。
次に見苦しく目についたのは鼻で、普賢菩薩の乗り物かと思われるほどでした。びっくりするほど高くそびえ、先端は少し垂れ下がり、赤らんでいるのがとりわけおぞましく思えます。
肌は雪にも劣らず真っ白く青ざめて、額は広々として、さらに下ぶくれな顔立ちは、恐ろしく面長です。気の毒なほど痩せ細り、肩の辺りなどは痛々しいほどに衣服の上からでも骨格が見えるのでした。
なぜこんなにしっかりと観察しているのだろう、とは思うものの、このような容姿はめったに見られるものではないので、ついつい御覧になってしまうのでした。[22]
頭部や髪の毛の垂れかかった感じなどは、素晴らしい美人に少しも劣らないほどで、袿の裾のあたりにまとまって、更に後ろへ一尺あまり長く引いているように思われます。お召しになっているものにまで言及するのは口数が多いような気もしますが、古い物語などに女性が登場する場合などは、まずやはりお召し物に触れるものでございます。
薄い紫色の色あせたのに、黒ずんだ袿を重ね、上着には香をたきしめた、美しい黒貂の皮衣を着ていらっしゃいました。古めかしく由緒ありげなお召し物でしたが、やはり若い女性には似合わない、物々しい感じが目立ちます。
とはいえ、確かにこの皮衣がないと寒いだろうと思われる表情なので、気の毒にお思いになりました。
光る君は何もおっしゃることができず、自分までも口がきけなくなったような気がしましたが、
「この人のだんまりを打ち破ってみよう」と思ってあれこれ話しかけなさるのですが、ひどく恥ずかしがって袖で口元を覆い隠していらっしゃるの姿は田舎っぽく古臭くて、儀式を司る役人が笏を持って両肘を横に張りながら歩き出した時のような大袈裟な感じがして、さすがに少しは愛想笑いを浮かべていらっしゃる様子も、中途半端で落ち着きがない印象です。
しみじみといたたまれない心地がした光る君は、いつもより急いでお帰りになることにしました。[23]
「頼りにできる人もいないようですね。契りを交わした私のことを、嫌わずに親密になってくだされば満足できるのですが。しかし、私に気を許していないようなのがつらくて」
などと、常陸の姫君の態度にかこつけて、
「朝日さす軒のたるひは解けながらなどかつららのむすぼほるらむ」
〔朝日がさして軒端のつららはとけたのに、どうしてあなたのお心は凍ったままとけずにいるのでしょう〕
と歌をお詠みになりましたが、姫君はただ「ふふっ」と笑うだけでまったく言葉が出てきません。このまま返歌を待つのも気の毒だったので、部屋を出なさるのでした。
御車を寄せている中門はひどく傾いていて、夜ならば目立たないことも多いのですが、たいそう切なくなるほど寂しく荒れ果てていて、松に降り積もった雪だけが暖かそうなのは、まるで山里のようだとしみじみ感じられて、
「かつての夜、左馬の頭たちが言っていた、寂しく荒れはてた家というのはこんな所だったのだろうよ。なるほど、気の毒でかわいらしい女をここに住まわせ、気になって恋しくて仕方ない感じを味わってみたいものだ。藤壺様への許されぬ思いも、それで紛れるだろうに」と思い、また、
「荒廃ぶりは思い通りの邸だが、それに似合わぬ姫君の醜悪な姿ではどうしようもない」と思いつつ、
「私以外の男性はこの容姿を見た上で、なお通って来ることがあろうか。私がこうして通うようになったのは、姫君の亡き父宮の魂がお引き寄せになったのであろう」とお思いになりました。
橘の木に降り積もっている雪を、随身をお呼びになって払わせなさいます。たわんでいた松の木の枝が橘を羨んでいるかのように雪を弾き、パラパラと雪が舞うのに、
「わが袖は名に立つ末の松山かそらより波の越えぬ日はなし」という歌が思い出され、
「そんなに深い内容ではなくても、小気味よく受け答えしてくれる人がいたらなあ」と思っていらっしゃいました。[24]
御車を出す門はまだ開けていなかったので、誰が鍵を管理しているのか尋ねると、ひどくよぼよぼの老人が出てきました。その娘でしょうか、あるいは孫娘でしょうか、背は高くも低くもない女が、ひどく黒ずんだ衣が雪のためにいっそう目立ち、寒いと思っている様子で、変な容れ物に火をほんの少し入れて、袖にくるむようにしながら持ってきました。老人が門を開けられずにもたもたしていると、女が近寄って手助けするのは実に見苦しくございました。結局、光る君に随行していたお供の人が寄っていって門を開けました。
「ふりにける頭の雪を見る人も劣らずぬらす朝の袖かな
〔=雪の降る中、年老いて真っ白になった老人の姿を見ると、思わず涙がこぼれ、私も老人に劣らないほど袖が濡れてしまう朝であることよ〕
『わかき者はかたちかくれず』」
と口ずさみなさると、とても寒そうに鼻を赤くしていた姫君のお姿がふと思い出されて、つい笑みがこぼれなさいます。
「頭の中将がこの姫君の鼻を見たら何に喩えるだろう。いつも様子をうかがいにここに来ているから、今に見つかってしまうかもしれないな」
と、どうしようもなくお思いになります。
あの姫君が世間並みの容姿だったなら捨ててしまってもよかったのですが、あの顔をはっきりと御覧になってしまったからには、かえって気の毒で仕方ないというお気持ちになって、常に気にかけて誠実にお手紙をお寄越しになるのでした。[25]
黒貂の皮衣ではない、絹・綾・綿など、年配のたちが着るにふさわしいの、それから、あの門を開けたよぼよぼの老人のもの、と、下々の者のことまでお考えになってお贈りになりました。
このような実用的なものを贈られても、気恥ずかしそうにしないので、気安く感じられ、後見人としてお世話しようと決心なさって、普通ではない無遠慮なこともなさるのでした。
かつて空蝉の女が油断して見せた宵の間の横顔はかなり醜いものでしたが、上品な振る舞いによってあまり気にならず、残念には思われませんでした。この常陸の姫君の出自は空蝉に劣るはずがありません。
なるほど、女の良し悪しは身分や家柄によるものではないのですね。
「空蝉は気立てが穏やかで、癪に障るほど頑なだったが、私は結局負けて終わったのだったな」
と、何かにつけて思い出されるのでした。
その年も暮れました。光る君が内裏の宿直所にいらっしゃると、大輔の命婦が参上しました。御髪を櫛でとかすなどの所用を申し付けるときには、色恋めいたことはなく、気楽な感じでしたが、そんな時も冗談をおっしゃるなど、かわいがっていらしたので、お呼びがなくても、何か話があれば参上するのでした。
「奇妙なことがあるのです。それを光る君様にお話ししないのもひねくれているのではないかと思われまして」
と微笑んだまま何も申し上げないので、
「何だい?私に遠慮などすることはないと思うが」とおっしゃると、
「どうでしょうか。私自身の悩みならば、畏れながらも真っ先に申し上げるでしょう。でも、これはとても申し上げにくいことでして」
と、ひどく口が重いので、「また思わせぶって」と憎らしくお思いになりました。[26]
「常陸の姫君様からのお手紙です」といって取り出しました。
「なおさら隠してよいことではないだろうに」
といってお取りになるにつけても、大輔の命婦は不安で胸が潰れるような思いがしました。
厚ぼったい陸奥国紙に、お香だけは深く焚きしめてありました。意外にもしっかりとお書きになっていて、苦手だと思われた歌も詠み添えてありました。
「から衣きみが心のつらければ袂はかくぞそぼちつつのみ」
〔=光る君様のお心が冷たいので、私の袖はこうして涙に濡れてばかりです〕
しかし、その内容は不審に思えて首を傾げていらっしゃると、年季の入った重そうな衣装箱を差し出しました。
「これをどうして情けなく思わずにいられましょうか。ですが、元日の光る君様の御装束だといってわざわざ用意したものを、そっけなく返すこともできません。私一人が知っていることとして隠してしまっても、姫君のお気持ちに反するでしょうから、まずは御覧に入れてから、と思いまして」
と申し上げると、
「黙って隠されてしまっては、後々苦々しいことになるだろう。共寝をする相手もいない私にとってはとても嬉しいお心づかいだよ」
とおっしゃる他には特にお言葉もございません。
「それにしてもこの歌は呆れた詠みぶりだ。これがあの方の限界のようだね。側仕えをしている者が手直しをするべきだろう。とはいっても、添削できるような者もいないのだろうな」
と、言っても仕方のないことだとお思いになりました。姫君が一生懸命にお詠みになっている様子を想像なさると、
「とてももったいないこと、とはこのようなことなのかもしれない」
と微笑みながらご覧になるのを、命婦は顔を赤らめながら拝見しているのでした。[27]
その装束は、色こそ今風でしたが、耐えがたいほど古臭くて品のない、表地も裏地も濃い同じ色で、ひどく平凡な直衣の裾が見えていました。
呆れたことだとお思いになった光る君が、その手紙を広げて端に何かをお書きになるのを横目に見ると、
「なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖にふれけん
〔心惹かれる風情でもないのに、どうして末摘花を手にしてしまったのだろう〕
色の濃いハナに見えたが」などと書き散らしなさるのでした。
末摘花に喩えて悪く言うわけをあれこれ思い巡らせて、たまに月明かりに拝見した姫君のお顔を思い浮かべると、その言われようを、おかわいそうに、と思いつつ、おかしくも思われました。
「くれなゐのひとはな衣うすくともひたすらくたす名をし立てずば
〔一回しか染めていない衣の薄い色のように、赤い鼻の姫君への愛情が薄かったとしても、評判を傷つけるような噂さえお立てにならなければ〕
心苦しいことだわ」と、たいそう慣れた様子で独り言のように詠むのは、出来の良い歌ではありませんでしたが、
「姫君にも、これくらい平凡でもいいから歌を詠む素養があればよかったのに」と心から残念に思われるのでした。
家柄が高貴であるだけに、評判を貶めるのはさすがに気の毒でございます。
女房たちが参上するので、
「衣装箱は片付けようか。このようなことを私がしていたらおかしいだろう」
とため息まじりにおっしゃるのでした。
「どうしてお目に掛けてしまったのだろう。これじゃあ私まで無風流みたいだわ…」と今さらながら恥ずかしい気がして、そっと退出しました。[28]
翌日、命婦が内裏に出仕すると、光る君が台盤所に顔をお出しになって、
「ほら、昨日の返事だ。不思議と気にかかって」
といって投げ渡しなさいました。女房たちは何があったのかと興味津々でございます。
しかし光る君は、
「ただ梅の花の色のごと 三笠の山の乙女をば捨てて」
と気の向くままに歌って出て行ってしまわれると、命婦はひとりおかしく思っていました。意味が分からない女房たちは、
「まあ、何でしょう。お一人でにやけて行ってしまわれたのは」といぶかしがっておりました。
「いえいえ。あの歌は『搔練り好むや』と続くので、霜が降りた寒い朝に、搔練りのように鼻を赤くしているのが見えたのでしょう。ああしてほんの一節だけを口ずさみなさるのがとても面白いわ」と言うと、
「まあ、ずいぶん一方的なこと」
「私たちの中に鼻を赤くしている人なんていないわ」
「左近の命婦か肥後の采女でもいたのかしら」
などと、わけも分からないまま話し合っておりました。
さて、光る君のお返事を末摘花の姫にお届けすると、女房たちがそれを読んでしきりに褒めちぎるのでした。
「あはぬ夜をへだつるなかの衣手に重ねていとど見もし見よとや」
〔幾夜も会わずにいて隔たってしまった私たちの仲ですが、独り寝をする衣の袖に、更に贈ってくださった衣の袖を重ねて、あなたはますます私と隔たってみようとし、また私にも通ってくるなということですか〕
白い紙に書き捨てていらっしゃいましたが、それもかえって風情のある感じがしました。
大晦日の日の夕方、例の衣装箱に「御料」と書かれた紙を貼って、誰かが光る君に献上した御装束をひと揃い、
葡萄染めの織物、他に山吹色やら何やら色とりどりの着物を、命婦が末摘花の姫に差し上げました。
「この前の装束の色合いは良くないと御覧になったのだろうか」と思われましたが、
「あれだって重厚な赤で良かったはずよ。いくら何でもは負けてはいないでしょう」
と年配の女房たちは評しております。
「御歌だって、こちらからお贈りしたものは筋が通っていて確かな出来映えでしたよ」
「御返歌の方はただ面白いばかりで」
などと口々に言っていました。
姫君も、会心作をお詠みになった自負がおありだったので、紙に書き付けて大事に保管なさっているのでした。[29]
元旦も過ぎて、その年は男踏歌がある年だったので、光る君は例によってあちらこちらへと歌や舞の準備に忙しく飛び回っていらっしゃいましたが、うら寂れた末摘花邸がしみじみ気の毒に思われてならなかったので、七日、人日の節句が終わった後、夜になってから帝の御前を退きなさると、そのまま御宿直の部屋にお泊まりになると見せかけて、夜更に訪問なさいました。いつもよりは賑やかで、世間並みといった感じがします。
姫君も、少ししっとりとおしとやかな雰囲気を身にまとっておいででした。
どうであろうか、年も改まってこの姫君もすっかり変わったらその時は、と思い続けていらっしゃいます。
翌朝は日の出の頃までゆっくりとして、お帰りになりました。
東の妻戸を押し開けると、向いの渡り廊下には屋根もなくぼろぼろなので、朝日が差し込み、雪が少し降っていたので明るく反射して部屋の奥まで見えました。
光る君が御直衣などをお召しになるのを見ると少し近づいて、横向きに寝ていらっしゃいましたが、髪の毛のこぼれ出ている感じは素晴らしくございます。
顔立ちも美しくなる時がもし来たらなあ、とお思いになりつつ格子をお上げになりました。前に末摘花の容貌をすっかりご覧になって気の毒なお気持ちがしたのに懲りて、格子は上げきらずに肘掛けをそこに挟んで支えとし、耳の辺りの乱れた髪をそっと整えておやりになりました。
どうしようもなく古くさい、鏡台にもなる中国製の化粧箱、髪結い道具を入れる箱を女房が取り出しました。一応、男性用の道具も少しあるのを、光る君は気が利いていて面白いとお思いになりました。
末摘花の装束が今日は普通に見られたのは、光る君がお贈りになったのをそのままお召しになっているからでした。しかし光る君はそのことにお気づきにならず、興趣のある模様がほどこされた袿を見て奇妙にお思いになりました。
「今年は声を少しはお聞かせくださいね。待たれる鶯の初音以上に、あなたのご様子が改まるのが待ち遠しくて」
とおっしゃると、
「さへづる春は」
〔無数の鳥がさえずる春は毎年改まりますが、私は年々古くなっていくだけです〕
と声を震わせながらおっしゃるのがやっとでした。
「そうだなあ。しかし、やっとお声が聞けたのも年月が経ったおかげだよ」
とお笑いになって、
「夢かとぞ見る」と口ずさんで退出なさるのを見送ると、物に寄り掛かっていらっしゃいます。
袖で口を覆った横顔は、やはりあの末摘鼻がとても赤々としているのをチラッとご覧になって、見苦しいものだ、とお思いになる光る君でした。[30]
二条院へご到着なさると、紫の君がとても幼くかわいらしい感じで、無地の桜の細長をしなやかに着こなして無邪気にしていらっしゃるのはとてもかわいらしく、同じ紅でもこんなに魅力的なのもあるものだな、と思われなさるのでした。
古風な祖母の影響で、お歯黒もまだだったのを、お化粧をさせなさってみると、眉がくっきりと見えて、かわいく、また美しくございます。
「私はどうしてあの姫君と関係を持って苦々しくもてあましているのだろう。気がかりなこの子のお世話をせずに」
とお思いになりつつ、いつものように一緒に雛遊びをなさったり、絵などを描いては色づけをなさったりしています。
紫の君は、色々と面白く好きなように描きちらしなさり、光る君もそれに合わせるように描き添えなさいました。
光る君は、非常に長い髪の女性をお描きになり、鼻の先端を紅く塗ってみたのですが、絵に描いても見苦しくございました。
それから、鏡に映るご自身のお姿が非常に美しいのをご覧になり、いたずらに鼻を紅くお塗りになってみると、これほどにお美しい顔立ちでさえ、こうなると見苦しいもので、紫の君はそのお顔を見て、大笑いなさいました。
「私がこんな風になったらどうしますか?」
「いやですわ」
紫の君は、紅がそのまま染みついてしまうのではないかと心配なさっております。
光る君は拭き取る真似をなさって、
「あれ、落ちなくなってしまったよ。つまらないことをしたものですね。帝は何とおっしゃるでしょうか」
と、とても真面目な顔をしておっしゃるので、かわいそうに思った紫の君が近寄ってお拭きになるので、
「平仲みたいに墨を塗らないでくださいよ。紅ならまだ我慢できるけれど」
などとおふざけになる様子は、非常に仲の良い兄妹のようでした。
日がとてもうららかになって、早くも一面に霞がかって、花を咲かせるのが待ち遠しい中に、梅は蕾もふくらみ、少し咲きかけているのが格別に見えました。階隠のふもとにある紅梅は毎年まっ先に咲く花で、早くも色づいておりました。
「くれなゐの花ぞあやなくうとまるる梅のたち枝はなつかしけれど
〔紅い色の花は無性に嫌な感じがするよ。高くそびえ立つ梅の枝には心惹かれるのだが〕
いやもう・・・」と、わけもなくついため息が出てしまわれるのでした。
さあ、このような人々の顛末はいったいどうなったことでしょう。[31]
[若紫][紅葉賀]