源氏物語~葵~(12)


このように、六条御息所は物思いにより、尋常ではなく体調が優れないので、加持祈祷を受けるためによそへお移りになりました。

そのことをお聞きになった光る大将殿は、どのような具合でいらっしゃるのだろうか、と気の毒に思えてお見舞いに向かいなさいます。

神聖な場所なので、人目につかぬよう厳重に警戒なさっていました。

お会いしたいのに訪れることができなかったことなど、許してもらえるよう言葉巧みに申し上げ、苦しんでいらっしゃるご内室の様子なども嘆きながらお話しになり、

「私自身はそこまで深刻に受けとめているわけでもないのですが、親たちが心配して非常に取り乱しているのが心苦しくて、そのような時が過ぎ去るまでは出歩くわけにもいかなかったのです。色々ありましたが、気持ちをお静めくださっているなら非常に嬉しくございます」

などと語り申し上げなさるのでした。

いつも以上に心苦しそうな御様子を、無理もないことだと、気の毒なお気持ちになるのでした。

うち解けることもないまま迎えた明け方、お帰りになる光る君のお姿があまりにも素敵で、やはり完全に忘れてしまうことはできない、と思い直さずにはいられません。

正妻という特別な存在に、子どもまで生まれたら愛情が加わるに違いなく、きっとこのお方にお気持ちが落ち着きなさるような気がして、今までのように光る君の訪れをお待ち申し上げるのも、神経ばかりがすり減ることになりそうで、かえって物思いの種となるのではないかとお思いになっていたところ、光る君からお手紙が届いたのは夕暮れ時でした。

「ここ数日、少し容態が回復してきたようだったのが、突如たいそうひどく苦しみ出したのを放ってはおけなくて、遅くなりました」

とあるのを、いつもの言い訳だとお思いになりつつ、

袖ぬるるこひぢとかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き
〔あなたとの泥沼のような恋路は涙で袖が濡れるばかりだと知っていながら、それでもその道を歩まずにはいられない自分がつらく情けない気がします。まるで、泥だと分かっていながら足を踏み入れる農夫のようです〕

愛情が浅いのを井戸の水かさが浅いのに例えて、袖ばかりが濡れてしまう、と詠んだ古歌に共感しています」

と書いてお送りになりました。

筆跡はやはり誰にもまして立派で美しいとご覧になりつつ、

「男と女というのはどうにもうまくいかないものだなあ。妻も愛人もみな、気立ても容姿も様々で、捨ててしまってもよいという人もいないけれど、この人こそはと決められる人もいないよ」

と思うと、残念なお気持ちになりました。

もう暗くなっていましたが、お返事には、

「『袖ばかり濡れる』とはどういうことでしょう。あなたの方こそ愛情が浅いことです。

浅みにや人はおりたつわが方は身もそぼつまで深きこひぢを
〔袖しか濡れないとは、あなたが下り立った恋路は浅いのではないですか。私の方は全身がつかるほど深い泥沼の恋路に踏み込んでしまっているというのに〕

並大抵の事情で、このお返事を直に申し上げずにいられましょうか」

などと書いてお送りになりました。

※雰囲気を重んじた現代語訳です。


六条御息所という人はどうにも重苦しい女性です。

光源氏もやっかいな人と関係を持ってしまったものですね。

こんなことなら拒まれた時に諦めておけば・・・とは思っていないでしょうが。笑

さて、今回出てくる二首の和歌には「こひぢ」と詠まれています。

「恋路」であることは皆さん分かると思いますが、古文に馴れていないとそれだけだと思ってしまうでしょう。

古文では「小泥」と書いて「こひぢ」と読みます。

和歌で「こひぢ」と出てきたら「恋路/小泥」の掛詞になることが多く、今回も例に漏れずであります。

訳の中で「泥沼」などと訳している理由はここにあります。

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