源氏物語~葵~(29)


左大臣は、

「大事な大事な若君がここに留まりなさっているのだから、いくら何でも何かのついでにお立ち寄りくださるだろう、などと自分の気持ちを慰めていますが、思慮分別のない女房などは、今日を最後にここをお見捨てになるのでは、と気が滅入って、我が娘と死に別れた悲しさにもまして、ただ時々光る君に馴れ親しんでお仕え申した年月までもがすっかり消滅してしまいそうなのを嘆いているようで、それももっともなことです。こちらには気を許していらっしゃることはありませんでしたが、それでもいつかはうちとけるだろう、とあてにならない期待を持っておりました。今日の夕暮れは本当に心細いことです」といってお泣きになりました。

すると光る君は、

「それはとても浅はかな嘆きというものです。『今はどうであれ、いつかは妻ともうち解けられるだろう』と気長に構えておりました頃は、自然と足が遠のくこともありましたが、その妻を失った今となってはかえって何をあてにして来訪を怠ったりできましょうか。今に私の誠実さをご覧になるでしょう」

といってお出掛けになるのを左大臣はお見送り申し上げ、光る君の居室にお戻りになると、御部屋のしつらえを始めとして、以前と変わったわけではないのですが、まるで空蝉のようで、空しい気持ちにおなりになりました。

御几帳の前に御硯などを散らかして、何かを書いて捨てていらしたのを手にお取りになって、涙に濡れる目を拭いながら強いてご覧になると、若い女房たちは悲しいながら微笑む者もいるようです。

紙には情趣のある古い中国や日本の詩歌を、草書や漢字を混ぜながら、無造作に、しかし素晴らしくお書きになっており、左大臣は「見事な筆跡だなあ」と空を仰いでぼんやりと物思いに耽りなさるのでした。

これから光る君のことを他人として拝見することになるのが残念なのでしょう。

「ふるき枕、ふるき衾、誰とともにか」という長恨歌の一節を書き記した近くに、

なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに
〔この世を去ってしまった魂がますます悲しく思われることだ。ともに寝た床を離れがたく思って来た心の習慣のために〕

とあり、また同じく長恨歌の一節を引用して「霜の花白し」と書いてある近くには、

君なくて塵つもりぬる常夏の露うち払ひいく夜寝ぬらむ
〔あなたがいなくなってからというもの、塵が積もってしまった床に涙の露を払いながら幾夜寝たことだろう〕

とあって、いつかの花なのでしょう、枯れてまじっていました。

※雰囲気を重んじた現代語訳です。


途中、白居易の「長恨歌」が引用されますが、現在流布しているものには該当する詩句がありません。

しかし、「長恨歌」を研究している人によると、平安時代に伝来したこの詩と現在の流布本との間には異同があり、「高松宮家伝来禁裏本」などには次のように書かれているそうです。

鴛鴦瓦冷霜華重 舊枕故衾誰与共
鴛鴦えんおうの瓦冷やかにして霜の華重く 舊ふるき枕、故ふるき衾、誰と共にかせん

鴛鴦(オシドリ)をかたどった瓦には冷たく霜の結晶が重そうにおりており、楊貴妃とともに寝た時の枕や衾(夜具)も、今となっては誰とともにしようか。

というような内容です。

このうち、「霜の華重く」を「霜の花白し」としたのは紫式部の改変らしいのですが、後半「ふるき枕、ふるき衾、誰と共にか」という部分は流布本では「翡翠の衾寒くして誰と共にかせん」となっているのですが、上述の通り、平安時代に伝来した当時はそうなっていたのだそうです。

長恨歌は愛する楊貴妃を失った玄宗皇帝の悲しみを歌ったもので、ここでは正妻・葵の上を失った光源氏の気持ちを託したものとして引用されており、そこに光源氏オリジナルの和歌が添えられている、ということです。

長恨歌の異同より、もっと問題だったのは光源氏の1つ目の歌「なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに」の解釈です。

調べると「なき魂ぞいとど悲しき」という部分を「亡き葵の上の魂はいっそう悲しんでいることだろう」としているものがありました。

いやいやいやいや、無理でしょう!

亡き葵の上の魂のことを思うと光源氏は悲しくなる、という風にしか僕には読めません。

円地文子さんもそう解釈しているようでした。

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