~前回までのあらすじ~
1)中宮様が出産のために内裏を離れ、大進生昌の邸にお移りなさることになりまちた。ところが生昌邸の北門は狭くて牛車のまま入ることができず、私たち女房は庭を歩いて屋内に入ることになってしまいまちた。
2)ひどい目に遭ったことを中宮様に報告していると生昌がノコノコやってきたのでガツンと言ってやることにしまちた。
3)思い切り生昌に詰め寄ると、生昌はしっぽを巻いて逃げていきまちた。
4)その夜、寝ていると、生昌が部屋の戸を少し開けて「入ってもいい?」なんて聞いてきまちた。
5)「いいわけないでしょ!」と言われて生昌は退散して行きまちた。
6)生昌がおかしな言葉遣いを連発するものだからおかしくて仕方ありませんでちた。
さて、シリーズ最終回です。
最後はふんわりです。
ふんわりわたあめのような甘い女の子になりたいです。← (´・д・`)バーカ
【原文】
中間なるをりに、
「大進、『まづ物聞こえん』とあり」と言ふを聞こし召して、
「またなでふこと言ひて笑はれんとならん」と仰せらるるもまたをかし。
「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、
「一夜の門の事、中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、
『いかでさるべからんをりに、心のどかに対面して申しうけたまはらん』となん申されつる」とて、
またことごともなし。
一夜のことや言はんと心ときめきしつれど、
「今しづかに御局にさぶらはん」とて去ぬれば、帰り参りたるに、
「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつることをさなんと啓すれば、
「わざと消息し、呼び出づべきことにはあらぬや。
おのづから端のかた、局などに居たらん時も言へかし」とて笑へば、
「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふ、と告げ聞かするならん」
とのたまはする御けしきも、いとめでたし。
【語釈】
◯「中間」読み:ちゅうげん
中途半端であること。
◯「なでふこと」
「何といふこと」が転じた語。「なでふ」は「なじょう」と読み、①なんとか言う、②どのような、③どれほどの、などという意味を持つ。ここでは②で「どんなこと」という意味。
◯「中納言」
生昌の兄で、平惟仲。
【現代語訳】
中途半端な時に、
「大進が、『とにかく申し上げたいことがあります』といって来ています」と言うのをお聞きになって、
中宮様が「今度はまた何を言って笑われようというのかしら」とおっしゃるのもまた面白いわ。
中宮様が「行って聞いてらっしゃい」とおっしゃるので、わざわざ出て行くと、
生昌が「先夜の門のことを、兄の中納言に話しましたところ、たいへんに感心し申されて、
『どうにか、しかるべき機会にゆったりと面会してお話を申し上げ、また伺いたい』と申されとった」といって、
また他には何も言わないの。
先夜のことを言うだろうか、と私は胸が躍ったけれど、
「そのうち落ち着いてお部屋に伺いましょう」といって行ってしまったから、私も中宮様のもとにお戻りすると、
「で、何だったの?」とおっしゃるので、生昌が申したことを、これこれと申し上げると、
女房たちが「わざわざ取り次ぎを頼んで呼び出すほどのことじゃないわよねえ。
たまたま中宮様から離れた端の方とか自分の部屋とかにいる時に言えって感じよね」といって笑うと、
中宮様が「自分が立派だと思う人が清少納言を褒めたものだから、嬉しく思うかな、と思って知らせたのでしょう」
とおっしゃるご様子も、とってもステキ。
何だか不思議なエンディングですよね。
話としては完結していないようですが、まあ物語ではないのでこういうのもアリですし、
むしろ、色々と想像をかき立てられるので、それもまた魅力の一つと言えるかもしれません。
この章段、実に明るく生き生きとした人間模様が描かれているように見えますよね。
ですが、これ、実は中宮の父=藤原道隆はすでに世を去っており、政治の実権は藤原道長に移っている時期です。
つまり、中宮定子の全盛期はとうに過ぎ去ってしまっている時期で、具体的には西暦999年の出来事です。
定子の父である道隆が世を去ったのが995年。
996年には定子の兄である伊周(これちか)が花山院殺人未遂事件を起こして復興の望みが完全に絶たれています。
この時、家宅捜索された定子は屈辱に耐えられず、また謝罪の意味も込めて落飾(出家)してしまいました。
還俗(げんぞく/出家を取りやめて俗世に戻ること)しますけどね。
同年、この事件を起こした伊周は播磨国に流されたのですが、勝手に入京するという有名な事件も起こしました。
勝手な入京は重病の母を見舞うためだったのですが、この入京が朝廷にバレてさらに遠い筑紫に流されるという・・・
バレたのは密告した人物がいるからですが、密告した人物というのが何と平生昌なのです!∑(=゚ω゚=;) マジッスカ!?
そんな状況下にあるとは思えないこの章段の明るさ。
もちろん、清少納言はあくまでも中宮様とその一家の魅力や栄華を書き綴ることを己の使命としていますので、
どんなに辛く悲惨な状況でも、そんなことを書くわけにはいかないし、書く気はさらさらありません。
このように、『枕草子』には涙を隠して書き上げた章段が少なくありません。
というわけで、999年というのがどういう時勢だったかお分かりいただけたでしょうか。
ちなみに、今回の中宮様の生昌邸へのお出ましに合わせて、藤原道長は宇治に遊びに出かけます。
もちろんワザとです。
貴族たちは道長に従って宇治に行かざるをえないので、中宮ほどの人物のお出ましにも関わらず、
随行する貴族がほとんどいなかったと言われています。
さらに、[1]で書いたとおり生昌というのは中宮職の三等官・従六位ですから、殿上人ですらないわけです。
上位の貴族たちは道長の目を恐れて誰も邸を提供しなかったのですね。
でもどうして生昌が邸を提供したのでしょうか。
ひょっとして上記、伊周入京密告に対する罪滅ぼしというか、後ろめたさからでしょうか。
それはもちろん分かりません。
というわけで、色々と思うところがたくさんあるこの章段、いかがでしたか?