長いシリーズになりそうな予感。
菅原道真は学問の神様・天神様として祀られています。
この人の人生の切ない晩年は有名なので知っている方も多いでしょう。
『大鏡』では「左大臣時平」の項目で語られます。
ではさっそくいってみましょう。
【現代語訳】
左大臣時平、この大臣は、基経公の長男である。御母は、四品弾正尹人康親王のご息女である。
醍醐天皇の御治世、このお方は左大臣の位で、年はとてもお若くいらっしゃった。
菅原道真公は右大臣の位でいらっしゃった。その時、帝は御年齢がとてもお若くいらっしゃった。
帝は、左右の大臣に、政治を執り行えという宣旨をお下しになったが、
その時、左大臣の御年は二十八、九歳ほどであった。
右大臣の御年は五十七、八歳でいらっしゃっただろうか。
ともに、政治を執り行っていらっしゃったが、
右大臣は学才が実に優れて立派でいらっしゃり、御気性も格段に立派でいらっしゃった。
左大臣は、御年も若く、学才も右大臣よりは格段に劣っていらっしゃったため、
帝の右大臣の御寵愛が格別でいらっしゃったので、左大臣は心中穏やかでなくお思いだったころに、
そうなる運命でいらっしゃったのだろうか、
右大臣にとってよくないことがおこって、
昌泰四年一月二十五日、右大臣を左遷して大宰権帥に任じ申し上げ、道真公は流されなさった。
【原文】
左大臣時平、このおとどは、基経のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康親王の御女なり。
醍醐の帝の御時、このおとど左大臣の位にて、年いと若くておはします。
菅原のおとどは右大臣の位にておはします。その折、帝御年いとわかくおはします。
左、右の大臣に、世の政をおこなうべきよし宣旨くださしめ給へりしに、
その折、左大臣御年廾八九ばかりなり。
右大臣の御年五十七八にやおはしましけん。
ともに世の政をせしめ給ひしあひだ、
右大臣は、才よにすぐれめでたくおはしまし、御心おきてもことのほかにかしこくおはします。
左大臣は、御年もわかく、才もことのほかにおとり給へるにより、
右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからずおぼしたるほどに、
さるべきにやおはしけん、
右大臣の御ためによからぬ事いできて、
昌泰四年正月廾五日、大宰権帥になしたてまつりて流され給ふ。
【語釈】
◯「基経」読み:もとつね
藤原基経。陽成天皇を退位させ、光孝天皇の即位に尽力。その際、源融(みなもとのとおる/嵯峨天皇の子)が即位を希望したが、基経は「天皇家に生まれても、一度臣下の身分になった者が即位した先例はない」として退けた。しかし、後に光孝天皇が重篤に陥った時には、臣下の身分になっていた源定省(みなもとのさだみ/光孝天皇の子)を皇太子につけ、即位させた(宇多天皇)。
◯「四品弾正尹人康親王」読み:しほんだんじょうのいんさねやすしんのう
「四品」は親王の位階の第四位。「弾正尹」は弾正台(警察機関)の長官。仁明天皇の第四皇子で、光孝天皇の弟。
◯「才」読み:ざえ
重要語で、学問・学才の意味。
◯「心おきて」
心構え、気立て、気性、の意味。
◯「おぼえ」
重要語で、①評判、②寵愛、の意味。ここでは②。
◯「右大臣の御ためによからぬ事いできて」
昌泰の変。皇位継承をめぐって、醍醐天皇&藤原時平 v.s. 宇多法皇&菅原道真の対立から、時平主導で道真は左遷されることとなった。
◯「昌泰四年」
昌泰(しょうたい)は898~901年で、醍醐天皇の治世。昌泰四年はこの元号の最後の年で、901年。
道真よりも、時平よりも、「基経って何なの?」っていう感じの注を付けてしまいましたが(笑)
宇多天皇(法皇)は藤原北家が政治力を持ちすぎるのを避けたかったんですね。
藤原基経が宇多天皇の治世の折に「阿衡事件」を起こしたのに懲り懲りしていたためだそうです。
阿衡事件についてはリンクを読んでもらえれば分かりますが、簡単に説明します。
宇多天皇は基経に政権運営を任せようとしますが、慣例によって、基経は一度は辞退します。
宇多天皇の二度目の依頼の時に「阿衡の任を請け負ってもらえないか」という文書を出すのですが、
「阿衡」は比喩で、要するに政治の最高責任者の職を任せたい、という意味です。
この「阿衡」は中国の故事からとったもので、殷の時代の伊尹という賢臣が任じられたものらしいのですが、
「阿衡は名誉職みたいなもので実権はない」、と難癖をつけてきたのですね。
この文書を作成した橘広相を宇多天皇はかばおうとするのですが、基経の機嫌がなおらず、政治が滞ったので、
やむを得ず、宇多天皇は左大弁橘広相を解任せざるを得ませんでした。
それでも機嫌が直らない基経をなだめて事件を収束させたのが、菅原道真でした。
この一件に嫌気がさした宇多天皇は、基経が死ぬと、待ってましたとばかりに藤原北家以外の人間を重用します。
菅原道真もその一人でした。
宇多天皇は、次帝・醍醐天皇にも「脱・藤原北家」路線でいってもらいたかったようですが、
醍醐天皇は藤原北家と仲良くやっていきたかったらしいのですね。
なもんで、宇多法皇とタッグを組んでいる菅原道真は鬱陶しかったようです。
(もっとも、上の本文では帝から寵愛を受けていた、と書かれています。真相はどっちかしら?)
結果、「昌泰の変」によって、道真は左遷され、大宰権帥(だざいごんのそち)に落とされてしまいました。
ということで、菅原道真の左遷についてでしたが、
『大鏡』では「よからぬ事」で済まされているので、ちょっと詳しく補足してみました。
では続きは後日。
[ 大鏡~菅原道真~(2) ]