言葉は難しいですよね。
よくある間違いとして「袖すり合うもたしょうの縁」ということわざを、
「多少」という風にとらえてしまうというのがあります。
それでも意味は成り立ちますからね、確かに。
でも正解は「多生」です。多生とは輪廻のことです。
でも今回のお話はそれとはちょっと違います。
コロケーション(言葉の組合せ)についてです。
例えば、「足をのばす」=「遠くまで行く」、になります。
しかし、「のばす=長くする」だからといって、遠出することを「足を長くする」とは言いません。
ここで紹介する文章はそこまで極端な話ではありませんが。
【現代語訳】
門に額を掛けることを、「打つ」というのは良くないのではなかろうか。
勘解由小路の二品禅門は、「額を掛ける」とおっしゃった。
「見物の桟敷を打つ」と言うのも良くないのではないか。「天幕を打つ」などと言うのはよくあることだが。
「桟敷を構える」などと言うのが良いのだろう。
「護摩を焚く」と言うのも良くない。「護摩を修する」「護摩する」などと言うようだ。
行法も「法の字を「ほう」と清音で言うのは良くない。『ぼう』と濁音で言うのだ」と清閑寺の僧正はおっしゃった。
いつも使う言葉にはこういうことばかりが多い。
【原文】
門に額掛くるを、「打つ」といふはよからぬにや。
勘解由小路二品禅門は、「額掛くる」とのたまひき。
「見物の桟敷打つ」もよからぬにや。「平張打つ」などはつねの事なり。
「桟敷かまふる」などいふべし。
「護摩たく」といふもわろし。「修する」「護摩する」などいふなり。
行法も、「法の字を澄みていふ、わろし。濁りていふ」と清閑寺僧正仰せられき。
つねにいふ事に、かかる事のみ多し。
【語釈】
◯「勘解由小路二品禅門」読み:かでのこうじのにほんぜんもん
藤原経尹(つねまさ)のこと。藤原行成の子孫。
◯「平張」読み:ひらばり
儀式などの時に幕を張って作った仮家のこと。天井の幕を平らに張る。
◯「清閑寺僧正」
清閑寺(せいかんじ)についてはこちら。清閑寺の僧正とは道我僧正という人で、兼好法師の友人だったという。左記ホームページにも道我僧正の文字がある。
◯「行法」
仏道の修行。
『徒然草』第160段です。
まさにコロケーションの話です。
今では「護摩」は「焚く」って言ってしまいますよね。
元々は言わなかったのでしょう。
兼好は言葉についてのこだわりが強い人ですから細かいところが気になるんですね。
さて、最初の「袖すり合うも多生の縁」についてですが、
アクセントを「袖すり合うも[たしょう]の縁」ではなく
「袖すり合うも[たしょう]の縁」にすればいいと思うんですけど、どうでしょう?
「多生」の正しいアクセントは知りませんが、何となくそんな感じがするので(笑)