9月に入りましたが、まだ熱いですね、2013年。
残暑と呼ぶのが憚られるほどで、お盆カムバックの猛暑カムバックといった感じです。
というのは関東だけかも知れませんが。
台風が発生しているようで沖縄や西の地域は雨がドカ降りのようです。
しかし酷暑というのは文明の利器があってもつらいわけですが、平安時代なんてどうしていたんでしょうね。
という謎?を解くのが今回の文です。
【現代語訳】
溶けちゃいそうなほど熱い日中に、「どうしたら熱さをしのげるのよ」と、扇の風も生ぬるいし、
氷水に手を浸して、めっちゃ気持ちいい!あー生き返るわー、なんて騒いでいる時に、
真っっっ赤な薄様紙に書いた手紙を、
これまた素晴らしく真っ赤に咲いているカラナデシコに結びつけてあるのを受け取った時は、
それを書いていた時の熱さと、思いやりの深さが思われて、
氷水に手を浸しつつ、反対の手で扇いでいたその時でさえ熱くてしょうがなかったのに、
その扇も知らずとつい置いてしまわずにはいられないわ。
氷水ね。
冷凍庫なんてないですから、冬に自然に出来た氷を「氷室(ひむろ)」で保管するわけです。
貴重品なので庶民の手に渡ることはなかったでしょうが。
そりゃそうと、なんで暑苦しい最中によりにもよって真っ赤な紙に真っ赤な花なのよ・・・ってね。
暑苦しいわボケ、ってなる気もしますが、暑い時こそ熱いお茶を飲むのと同じようなものでしょう。
より熱く感じるものを見ることによって心理的に暑さが和らぐ、という。
氷以上に気遣い満点の手紙は効果があるということですね。
しかし、誰からの誰宛ての手紙なんでしょうね。
自分宛てだとすると、扇いでいた扇も置いて早く読みたい気持ちになる、ということでしょうね。
その場合、やはり恋人からの手紙でしょうか。
あるいは、他の人宛てだったとすると、その気遣いにハッと心を奪われ、
手紙を読むためではなく、つい扇も置いてしまうということになりますね。
【原文】
いみじう暑き昼中に、いかなるわざをかせむと、扇の風もぬるし、
氷水に手をひたし、もてさわぐほどに、
こちたう赤き薄様を、
唐撫子のいみじう咲きたるに結びつけて、取り入れたるこそ、
書きつらむほどの暑さ、心ざしのほど浅からずおしはかられて、
かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置かれぬれ。