帝は「今や、どなたもこの若宮をお憎みになることはできまい。
色々あるかもしれないが、幼くして母親を亡くしたことへの同情の念だけでも良いので慈しんでほしい」
と言って、弘徽殿などに足をお運びになるお供としてそのまま御簾の中にお入れ申し上げなさいました。
勇壮な武士や、仇敵であっても若宮を見るとつい微笑んでしまうほどの魅惑的なお姿でいらっしゃるので、
さすがの弘徽殿様でも遠ざけることなどおできになりませんでした。
弘徽殿様には姫宮がお二方いらっしゃるのですが、この若宮と比べるとどうしても見劣りしてしまうのでした。
他の女御や更衣の御方々も御簾の奥にお隠れにならず、今時分からこんなにも美しく立派でいらっしゃる若宮を、
たいそう興味深く、また気を置いてしまう遊び相手と誰もが思い申し上げていらっしゃいました。
正式な御学問はもちろん優秀で、その他管弦の演奏をしても澄んだ音が空にまで響き渡るようで、
その素晴らしさをすべてを言葉にしたら、大げさに長々しく鬱陶しいものとなるに違いないので控えることといたします。
その頃、高麗人がこの国に参上していたのですが、
帝はその中に優れた人相占いをする者がいるということをお聞きになって、
内裏に異国人をお招きなさるのは宇多天皇が厳しく禁止する掟をお定めになっていたものですから、
人目につかないよう厳重に警戒しつつ、この若宮を鴻臚館という訪日外国人の宿泊施設に向かわせなさいました。
後見人めいてお仕えする右大弁の子であるかのようにお連れ申し上げると、
占い師はびっくりして何度も首をかしげては不思議がっておりました。
「国王として即位するべき人相をお持ちになる人ですが、
そのような方として将来を見てみると国が乱れ憂えるようなことが起こるでしょうか。
朝廷の重鎮となって世の中を支える方として見ると、また違ってくるでしょう」と言うのでした。
後見人を演じている右大弁もまた学才に優れた有識者でしたので、
そこで言い交わしたことなどはとても興趣があるものだったそうです。
漢詩などを作り交わして、今日明日にも帰国しようという時にめったにないほど素晴らしい人と会えた喜びや、
はたまたかえって悲しい別れをすることになってしまったことなどを風情豊かに作ったのですが、
若宮もまたしみじみ趣深い詩句をお作りになったので、
占い師は絶賛し申し上げて、たいそうな贈り物を若宮に進呈しました。
朝廷からも、この占い師にたくさんの褒美をお贈りになりました。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
若宮の人相占いは、「桐壺」巻の有名な場面かと思います。
朝鮮半島から人相見がちょうど来日している、とのことですが帝はそれを宮中に招きません。
宇多天皇の戒めがあるから、と記されています。
Wikipediaによると宇多天皇が次の醍醐天皇に譲位する時に残した「寛平御遺誡」というのがあり、
「寛平8年(896年)に唐人李懐(李環)と面会したことは誤りであったとして、外蕃(外国)の人とは必ず御簾越しに面会するようにとも記している。これ以降、在位中の天皇が外国人と面会することは明治に至るまでなかった。」
とのことです。
あと、弘徽殿の女御には春宮(皇太子)についた第一皇子の他、姫宮が二人いることがここで書かれました。
ので、系図を更新しておきます。
では次回をお楽しみに。
<<戻る 進む>>