源氏物語~帚木~(23)


女は泣いているところを見られるのもとてもきまり悪く気が引けるようで、涙を隠し、

『あなたの薄情さを思い知りましたよ』と思っているのだ、などと私に思われるのがどうにも嫌な性分の女だったので、

私は変に気を遣わず、気楽に構えてまたしばらく通わずにおりました間に、女は跡形もなく姿を消してしまいました。

もしまだ生きていたら、この頼りない世の中をさすらっていることでしょう。

その女を愛していた時に、もし煩わしいほどしつこく私に迫ってきていたら、このように逃がしたりはしなかったでしょう。

足繁く通い、相応の妻として長く一緒に過ごしていたことでしょう。

その女との間に出来た娘がかわいらしくございましたので、どうにか訪ねたいと思っているのですが、

今なおその所在をつかむことができません。

これこそ、左馬の頭殿が先程おっしゃった、頼りない例でしょう。

表向き平気なふりをして、内心では耐えがたく思っていたことも知らずにその女を愛しく思い続けていたのも、

私の空しい片思いだったのです。

徐々にその女への思いを忘れていく今になって、

女もひょっとしたら私のことを忘れられず、自分のせいで胸を焦がす夕べも時にはあるかもなあと思ったりもします。

これなどは長く関係を保つことができない、頼りない部類の人でしたね。

ですから、先程のお話にあった指に噛みついてきた女も、印象深くて忘れがたいでしょうが、

やはり顔を合わせて暮らすには煩わしく、下手をするとすぐに辟易することもあるでしょう。

琴の音色に惹かれたという才女にしても、好色な罪は重いでしょう。

この常夏の女のはっきりしない態度も疑わしいところが出てくるに違いないので、

この人こそ、と決めきれなくなってしまうのが男と女の世なのですよ。

ただこのようにどうあっても扱いにくいものです。

さまざまな長所を掛け合わせ、難点がまったくない女はどこにいるのでしょうか。

吉祥天女に思いを掛けようとするのも仏教じみているし、辛気くさいのもまたつまらないに決まっています」

と言って皆で笑うのでした。

※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。


さて、最後に出てきた吉祥天女きちじょうてんにょとはいったいなんぞや。

三省堂「詳説古語辞典」のお出ましです。

((仏教語。「きっしょうてんにょ」とも))福徳を施すという美しい天女。もとインド神話の女神で、のち仏教に取り入れられた。毘沙門天びしゃもんてんの妻とされる。その像は天衣・宝冠をつけ、左手に宝珠を持つ。吉祥天。

とのことです。

毘沙門天の妻とな。ともあれ、画像を拝借してきましたので。

どこから拝借してきたかというと楽天市場内のユーラシアアートさんより。

頭中将の文脈だと、実世界の女性はどこかしら欠点があるから、完全無欠の吉祥天女を、っていう冗談です。

七福神も、最初は弁財天ではなく吉祥天女だったそうで。(Wikipedia)

 

さて、常夏ちゃん雲隠れの巻でしたが、夕顔ちゃんとなって再登場する日をお楽しみに~。

 

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