「何にせよ、男も女もだめな輩はちょっと知っていることをすべて人に披露してやろうと思っているのが困りものです。
三史や五経といった学問の道を、解明しつくそうとするのはかわいげがないですが、
女とはいえ、世の中の様々なことを公私につけてまったく知らないというわけにもいきません。
わざわざ習得しているわけではなくとも、少し学才のある女の噂が耳に入ったり目にとまったりすることはあるでしょう。
しかしだからといって漢字を書き散らして、ひらがなで書くべき女同士の手紙の半分以上が漢字だったりするのは、
嫌だ嫌だ、もっとおしとやかだったらなあ、と思われるものです。
書いている本人としては何の他意もないのでしょうが、
読む方にしてみればそのような文は自然と堅苦しい声で読まれ、わざとらしく感じられるのです。
このようなのは上流階級の女性にも多く見られることですよ。
一人前の歌詠みだと自負している女が、歌にとらわれて興趣のある故事などを自分から和歌に取り込んで、
興ざめな時に詠みかけてくるのは不愉快なものです。
返歌をしなければ風情がないし、また返歌を詠めないとなればみっともない。
朝廷でのしかるべき宴など、例えば端午の節句に急ぎ参内した朝、心を静めることもできないような時に、
文句のつけようもないほど素晴らしく菖蒲の根を掛けた歌を詠みかけてきたり、
重陽の節句で作詩をしなければならず、難しい詩の内容を思い巡らすので忙しい時に、
菊の花に降りた露にかこつけて歌を寄こしてきたり、などといった意に染まないことに付き合わせ、
またそうではなくても、後々思えば確かに面白く趣深いはずだったことでも、
その時点では相応しいとは思えず目にとまらないことを、女がそうと察しないで歌を詠み出すのは、
かえって気が利かないと思わざるを得ません。
何事においても、今はそうするべきではないと思われる時を見分けられない程度の思慮なら、
風流ぶったりしない方が、感じが良いでしょう。
知っていることも知らないふりをし、言いたいことも一つ二つは言わずにやりすごすべきでしょうなあ」
と左馬の頭が言うと、光る君はただ藤壺様お一人のことを胸に思い続けなさるのでした。
「あの方は、不足なところもなければ出すぎたところもなくいらっしゃったことよ」と、
その比類ない存在にますます胸がいっぱいになりました。
さて、この女性論はどこかに行き着くこともなく、仕舞いには奇怪な話になって夜は明けたのでございます。
※雰囲気を重んじた現代語訳となっております。
左馬の頭が最後にしめました。
これで有名な「雨夜の品定め」は終了となります。
この巻はまだ続きますけどね。
ではまず簡単な語釈を。
「三史」とは『史記』『漢書』『後漢書』のこと、「五経」とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』のことだそうです。
簡単に言えば、古代中国から日本に伝わった学問書のことですね。
さて、この「帚木」巻が始まった頃は頭の中将の動作に尊敬語があまり使われていませんでしたが、
途中から使われるようになってきます。
ここに集まって話をしていたのは、光源氏・頭の中将・左馬の頭・藤式部の丞の4人です。
光源氏以外は呼び名が役職となっています。
今更ですが、それぞれの官位について確認しておきたいと思います。
これはベネッセ古語辞典に掲載されているものを抜粋した表で、757年に制定された「養老令」によるものです。
時代によって変遷があるようですが。
まあ取りあえず上記の表を基準に考えてみます。
光源氏は中将(近衛中将)なので従四位。
頭の中将というのは「蔵人頭くろうどのとう」と中将を兼任した人のことで、やはり従四位。
左馬の頭は従五位。
式部の丞は上記の表に載っていませんが、大丞なら正六位、小丞なら従六位ということになるそうです。
ところで、殿上人てんじょうびとというのをご存知でしょうか。
以前に紹介した内裏図です。
赤く囲ってあるなかに「清涼殿せいりょうでん」があり、ここに天皇が暮らしているのでしたね。
その清涼殿の中に「殿上の間」と呼ばれる一室があるのです。
当然ですが、かなり高貴な身分の貴族だけしか入れず、入室を許された人は「殿上人」と呼ばれます。
具体的には、四位・五位の官位を持っている人が殿上人なのです。(三位以上は上達部かんだちめ)
つまり、光源氏はもちろん、中将や左馬の頭といった人たちはみな殿上人です。
で、藤式部の丞(六位)だけが殿上人ではない、というのも少し違和感があるような気がいたします。
そこでWikipediaさんにお伺いを立ててみると。
六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために殿上の丞(てんじょうのじょう)と言われた。
とありました。
そう、「六位蔵人」というのは六位なのに例外的に殿上の間に入れるので、殿上人に数えられるのです。
つまり藤式部の丞というのは、六位蔵人と式部丞を兼任していた人なのでしょうなあ。
というわけで今回はここまで。
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