徒然草~賀茂の競馬~


出家したい、という思いは割と昔からあります。

出家と言っても仏門に入るというのではなく、世捨て人になるということですが。

俗世間に対する愛執もまた強いので、まあ無理なんですけどね。笑

『徒然草』は楽しい話も多いですが、仏教の話、無常観や出家を促すような文も目立ちます。

今回は無常観の話の中でもとりわけ有名な章段です。


【原文】
五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、車の前に雑人立ちへだてて見えざりしかば、
おのおのおりて、埒の際に寄りたれど、
ことに人おほく立ちこみて、分け入りぬべきやうもなし。
かかるをりに、向ひなる楝の木に、法師の、登りて木の股についゐて物見るあり。
とりつきながら、いたうねぶりて、落ちぬべき時に目をさます事たびたびなり。
これを見る人、あざけりあさみて、
「世のしれものかな。
かくあやふき枝の上にて、安き心ありてねぶるらんよ」と言ふに、
わが心にふと思ひしままに、
「われらが生死の到来、ただ今にもやあらん。
それを忘れて、物見て日を暮らす、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、
前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。最も愚かに候ふ」と言ひて、
みなうしろを見かへりて、「ここへ入らせ給へ」とて、所をさりて、よび入れ侍りにき。
かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、
をりからの思ひかけぬ心ちして、胸にあたりけるにや。
人木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。


【語釈】
◯「賀茂の競馬」読み:かものくらべうま
二頭の馬を直線の馬場で走らせ、勝敗を争う競技。五月五日に賀茂神社で行われた。

◯「雑人」読み:ぞうにん(ざふにん)
庶民。身分の低い者。

◯「埒」読み:らち
馬場を囲う柵。

◯「分け入りぬべきやうもなし」
「ぬ」は強意の助動詞。「べき」は多くの意味を持っているが、文脈からここでは可能。「やう」は普通に様子でいいだろう。というわけで「分け入ることができそうな様子もない」と訳せばよい。

◯「」読み:おうち/あうち(あふち)
別名「栴檀(センダン)」。香りの良いきなので「栴檀は双葉より芳し」という諺もにもなっている。

◯「しれもの」
馬鹿者、愚か者の意味。

◯「われらが生死の到来」
格助詞「が」は連体修飾の用法で「生死」に係る。「生死」は「しょうじ」と読み、「死」の意味。

◯「前なる人ども」
助動詞「なる」は存在を表し、「~にいる/~にある」の意味となる。


【現代語訳】
五月五日、賀茂の競馬を見ておりました時に、牛車の前に民衆が立ちはだかって見えなかったので、
それぞれ車を降りて、馬場を囲う柵の近くに寄ってみたけれど、
とりわけ人が多く混み合って、分け入ることが出来そうにもない。
このような時に、向かい側の楝の木に登って木の股に腰掛けて見物する法師がいた。
木につかまりながら、ひどく眠り込んで、落ちそうな時に目を覚ますことがたびたびであった。
これを見る人は、あざ笑い蔑んで、
「まれに見る馬鹿者だなあ。
このように危ない枝の上で、安心して眠っているのだろうよ」と言うので、
私の心にふと思ったまま、
「我々の死が訪れるのは、今すぐかもしれない。
そのことを忘れて、見物して日を過ごす、愚かさはこちらの方がいっそう上をいっているのに」と言ったところ、
前にいた人々が「本当にその通りですなあ。いかにも愚かでございます」と言って、
皆後ろを振り返って、「ここへお入りなさいませ」と言って、場所を空けて、私を呼び入れてくれました。
この程度の道理は誰でも思いつくことであるけれども、
ちょうどよい折のことで思いがけない心地がして、心を打ったのだろうか。
人は木や石ころではないのだから、ものに感ずることがないわけではない。


『徒然草』の第41段です。

ちょうどこれを書いている時、台風の夜で、しかも地震がありました。(o;TωT)o”ビクッ

さいわい、台風もさほどの風雨をもたらさず、地震も小さかったですが。

しかし津波注意報は太平洋沿岸のかなり広範囲に出ています。

いくら無常迅速と心で思っていても、いざこういうことになると恐ろしいです。

悟りの境地にはほど遠いですわ。

 

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