枕草子~小白河といふ所は~(2)


(前回の内容)
藤原済時の邸である小白河殿で「法華八講」を催すことになりました。
清少納言も早朝に出発して行ってみると既に大混雑。
左大臣・右大臣を除くすべての上達部、それから殿上人もたくさん来ていました。

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平安時代、貴族女性はもちろん、ある程度以上の家柄の女性にとって、寺社参りというのは特別だったようです。

何しろ、男性から顔を見られないように生活をしているわけですからフラフラやたらと外出するものではありません。

寺社参りというのは女性たちが出かける大義名分だったわけです。

今回も「法華八講」ということで、それに準ずるのです。

そんな中、清少納言のファッションチェックが続きます。


【現代語訳】

少し日が高くなってきたころ、まだ三位の中将でいらした今の関白殿が、

二藍の唐の薄物の御直衣、二藍の指貫、その下に履いている濃い蘇芳色の御袴、

パリッと糊のきいた白くて鮮やかな単衣を羽織りなさってお越しなったのは、

他の方々がみな涼しげな軽装をしていらっしゃる中で、暑そうではあったけど、とっても素晴らしかったの。

ホオノキだったり塗り骨だったり、骨は様々でも、赤い紙を張った扇を皆が一様に使っているのは、

まるで撫子の花が一斉に咲いているかのようだったわ。

まだ説教の講師が参上しないうちに、懸盤で何かを召し上がっていたみたい。

義懐の中納言のお姿はいつも以上にこの上なく素晴らしかったなあ。

どれが特に、ということもなく皆美しく鮮やかな色彩の直衣の下に帷子を着ていたのに、

この方は直衣だけを着ているようで、

ずっと庭の車の方を見ながら、何か話しかけていらっしゃったのを、素晴らしいと思わない人はいなかったでしょうね。


三位の中将でいらした今の関白殿・・・藤原道隆のこと。清少納言の主人である中宮定子の父親。道隆が三位の中将だったのは、永観2年(984年)~寛和2年(986年)だったようだ。この「法華八講」が行われたのは寛和2年とのこと。道隆34歳。

蘇芳すおう色・・・黒ずんだ赤。小豆色

ホオノキ・・・原文では「朴」と書かれている木の名。扇の骨の材料にもされたらしい。

撫子・・・なでしこ。大和撫子唐撫子があるが、赤い紙を張った扇を例えるなら唐撫子か。

懸盤かけばん・・・お膳の一種。

義懐・・・藤原義懐よしちか。花山天皇の治世下で権勢をふるったが、天皇の出家とともに政界を退く。ちなみに花山天皇を出家に追いやった主犯は藤原道隆の父(藤原兼家)と弟(藤原道兼)。左右の大臣はこの法会に参加していなかったと書かれているが、この時の右大臣が兼家。花山天皇が出家させられるのはこの法会のすぐ後。


講談社学術文庫『枕草子』にも書かれているのですが、上述の通り、自分(清少納言)の主人の家が陰謀に関わっている花山天皇の出家事件なわけです。

その花山天皇の出家とともに政界を退いて自らも出家した藤原義懐を登場させ、褒めているのはどうしたことでしょう。

『枕草子』を執筆している時点では当然ながら花山天皇も義懐もとっくに出家しています。

清少納言の心境は読者の想像に委ねられます。


【原文】
すこし日たくるほどに、三位の中将とは関白殿をぞ聞こえし、
唐のうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇芳の下の御袴に、
はりたる白き単衣のいみじうあざやかなるを着給ひて、あゆみ入り給へる、
さばかりかろび涼しげなる御中に、暑かはしげなるべかりけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。
朴、塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を、おしなべて使ひ持ち給へるは、
撫子のいみじく咲きたるにぞいとよく似たる。
まだ講師ものぼらぬほど、懸盤して、何にかあらん、物まゐるなるべし。
義懐の中納言の御様、常よりもまさりておはするぞかぎりなきや。
色あひのはなばなといみじうにほひあざやかなるに、いづれともなき中の帷子を、
これはまことにすべてただ直衣ひとつを着たるやうにて、
常に車どもの方を見おこせつつ、物など言ひかけ給ふ、をかしと見ぬひとはなかりけん。

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