枕草子~夜をこめて~(1)


藤原定家の私撰集『小倉百人一首』にも採録された清少納言の和歌が出てくる有名な章段です。

学生時代のテキストには「清少納言の才と恋」という副題がついていました。


【現代語訳】

頭の弁・藤原行成が、私たちのいる職の御曹司に参上して、話をなさっているうちに夜がとっても更けてしまったの。

「明日は内裏の御物忌みで、籠もらなければならないから、丑の刻になったらまずいな」

といって、お立ちになられたの。

翌朝、蔵人所の紙屋紙を重ねて、

「今日は話しそびれたことが多かった気がするよ。一晩中、昔語りでもしながら夜を明かしたかったのに、

鶏の声にせき立てられて」

なんてことを長々と書いていらしたんだけど、とても素晴らしく思ったわ。

お返事に、

「夜更けに鳴いた鶏というのは、『孟嘗君』のと同じ、鳴き真似だったのではありませんか?」

と申し上げたところ、すぐさま、

「孟嘗君の鶏の鳴き真似は、函谷関の門をあけて、三千人の食客とともにかろうじて逃げたとあるが、

私が越えようとしているは逢坂の関だよ」

ときたので、

夜をこめて鶏の虚音ははかるともよに逢坂の関は許さじ
〔夜更けに鶏の鳴きまねをして朝が来たとだまそうとしても、逢坂の関は函谷関とは違うのでそんなことでだまされて門を開けることはありませんし、あなたと結ばれることも決してないでしょう〕

優れた関守がいますから」

と申し上げたの。

すると、またすぐに、

逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか
〔逢坂山は越えるのがたやすい関だから、鶏など鳴かなくても門を開けて待っているとかいう話ですが〕

という手紙のうち、行成様からの最初の一通は僧都の君が、ありがたがって額を床につけながらお納めになったわ。

後の二通は中宮様に献上したの。

さて、行成様が詠んだ「逢坂は」の歌には圧倒されてしまって、返歌もできなかったわ。

われながらダメね。


頭の弁・・・「蔵人頭くろうどのとう」と「中弁ちゅうべん」を兼任している者をいう。

藤原行成ゆきなり/こうぜい・・・能書家として知られ、「三蹟」の一人に数えられている。長徳元年(995年)に蔵人頭に任じられ、翌年に左中弁に任じられている。

しきの御曹司みぞうし・・・内裏の東にある殿舎。皇后・皇太后・太皇太后に関する事務を扱う「中宮職ちゅうぐうしき」の役所。長徳元年に中宮定子の父・藤原道隆が死去、翌年に兄・藤原伊周、弟・藤原隆家が花山法皇暗殺未遂事件を起こす。懐妊していた中宮定子は内裏を退去したが、そこへ逃げ込んできた伊周・隆家の2人が目の前で検非違使けびいしに拿捕されると、髪を切って出家してしまう。その後、生母・高階貴子も死去。定子が女児を出産すると、一条天皇は周囲の反対を押し切って、定子を呼び戻したが、さすがに内裏に住まわせることはできず、この職の御曹司をあてがった。

御物忌み・・・内裏での物忌みは天皇が政務を執らずに数日こもる。蔵人頭も殿上の間にこもる。こもる人は丑の刻までに参上することになっていたらしい。丑の刻は午前2時ごろ。

紙屋紙こうやがみ・・・宮中で使用する紙。平安時代、京都の紙屋川付近にあった朝廷の製紙所ですいた紙。

孟嘗君もうしょうくん・・・中国戦国時代の人物。

函谷関かんこくかん・・・斉の孟嘗君が秦の昭王に招かれたが、気が変わった昭王は孟嘗君を食客もろとも幽閉してしまう。かろうじて逃げ出した孟嘗君と食客だったが、函谷関という関所は一番鶏が鳴くまで開かないという。そこで、食客の一人が鶏の鳴き真似をし、騙された函谷関の門番が門を開け、無事に通過した。「鶏鳴狗盗」の四字熟語になっている。

逢坂おうさかの関・・・山城と近江の国境にある逢坂山の関所。「逢」という字が入っていることから、「男女が逢う」という意味が掛けられ、「逢坂の関を越える」という表現には「男女の一線を越えて結ばれる」という意味になった。
逢坂の関記念公演
逢坂の関記念公演(滋賀県大津市)

僧都の君・・・中宮定子の弟。藤原隆円たかまど。若くして出家したらしい。


この文章に暗さはまったくありませんが、関白・藤原道隆も亡くなり、伊周,隆家兄弟が捕まり、定子の生母・高階貴子も亡くなり、と完全に没落の一途をたどっている時期の出来事です。

そこを訪れた行成ですが、行成もまた何ともunluckyな人生なのです。

さて、冒頭にも書いた通り、「夜をこめて」という歌が出てくる有名な章段です。

今回さっそく出てきましたが、この歌は逢坂の関の跡地に行くと歌碑があります。
歌碑「夜をこめて・・・」

では、最後に原文を。


【原文】
頭の弁の、職に参り給ひて物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。
「明日、御物忌なるに、籠もるべければ、丑になりなばあしかりなむ」
とて、参り給ひぬ。
つとめて、蔵人所の紙屋紙ひき重ねて、
「今日は、残り多かるここちなむする。夜を通して昔物語も聞こえ明かさむとせしを、
鶏の声にもよほされてなむ」
と、いみじう言多く夏き給へる、いとめでたし。御返りに、
「いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや」
と聞こえたれば、立ち返り、
「孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客わづかに去れり、とあれども、
これは、逢坂の関なり」
とあれば、
「夜をこめて鶏の虚音ははかるともよに逢坂の関は許さじ
心かしこき関守はべり」
と聞こゆ。また立ち返り、
「逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて取り給ひてき。
後々のは御前に。
さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。
いとわろし。

進む>>

 

Posted in 古文 | Leave a comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です