光る君は熱病を患いなさり、様々な加持祈祷をさせなさったのですが、効果がなく、たびたび熱の発作に悩まされるものですから、ある人が、
「北山にある、何とかいう寺に優れた僧侶がおります。去年の夏もこの病が流行って、やはり加持祈祷が効かずに困っていたのを、この僧侶があっという間に治したことが何度もありました。こじらしてしまったら厄介ですから、早くお試しなさるのがよいかと存じます」
などと申し上げるので、その僧侶を呼びに使いをやったのですが、
「年のせいで腰が折れ曲がっていて、家から出られません」
と申してきたので、
「仕方がない、目立たないようこっそりと出かけるか」
とおっしゃって、お供には親しい者を四、五人ほど連れて夜が明けないうちにお出かけになりました。
僧侶の住まいは北山の少し奥深くに入った所でした。三月の末だったので、京の桜の花盛りはすっかり過ぎてしまっておりましたが、山の桜はまだ咲き誇っていて、光る君が奥へと進みなさるにつれて、霞の雰囲気も趣深く見えました。このような出歩きはご経験がなく、窮屈な身の上だったので、新鮮で面白く思っていらっしゃるのでした。[1]
寺の様子もたいそうしみじみとしたものでした。高い峰の奥まった岩穴の中に聖は入っていました。光る君はそこへお上がりになると、お名乗りにもならず、ひどく粗末な身なりをしていらっしゃいましたが、誰だかはっきり分かるご様子だったので、
「なんと畏れ多いこと。先日、お呼びくださった方でいらっしゃいますかな。今やこの世のことは何も考えておりませんので、加持祈祷なども忘れてしまいましたのに。どうしてこんな山奥までいらっしゃったのでしょうか」
と驚き騒いで、にこやかに光る君を見申し上げています。非常に尊く徳の高い聖でした。薬を作って飲ませ申し上げ、加持祈祷などをして差し上げているうちに、日が高く昇りました。
ちょっと立って外に出て、景色を見渡しなさると、思いのほか高い所で、あちこちに僧坊があるのが下の方に丸見えでした。
「ちょうど、このつづら折りの道の下に、よそと同じ小柴垣だが、よそよりもきちんと巡らしていて、綺麗な屋根や廊下などが連なっている、庭の木々なんかも風情があるのは誰が住んでいるのかな」
とお尋ねになると、お供の者が、
「これは、何とかいう僧都がここ二年ほど籠もっている所でございます」
「立派な人物が住んでいるのだろうな。それにしても、あんまり粗末な恰好をしすぎてしまったな。その僧都に自分の素性を知られたら嫌だな」
などとおっしゃっていました。
小綺麗な子どもがたくさん出てきて閼伽棚に水をお供えしたり花を折ったりするのもよく見えました。
「あそこに女がいたぞ」
「まさか。僧都が女と一緒に暮らすなんてことはないだろう」
「女とはどういう関係なんだろう」
と口々に言い、崖を少し下りて覗く者までいました。光る君は勤行をなさりつつ、日が高く昇るにつれて、病はどうなることか、とお思いになっていると、
「何かしら気を紛らわせて、あまり病のことを気になさらないのがよろしいかと存じます」
と申し上げるので、後方の山の方に出て、京の方を眺めなさるのでした。[2]
「遠くまで一面に霞で覆われて、あたりの木々がぼんやりとかすんでいる様子はまるで絵のようだな。こんな所に住む人は、思い残すこともないだろうね」
「これなど大したことはありません。よその国の海や山などをご覧に入れたら、どんなにか絵も上達なさることでしょう。富士山やら、何とか嶽やら・・・」
他に、西の国の風情ある海岸や浜辺を言い続ける者もいて、光る君の気を紛らわせ申し上げるのでした。
「近い所では、播磨国の明石の浦がやはり格別でございます。具体的にどこが趣深いというわけではないのですが、ただ海を眺めていると、不思議と他とはまったく違ってゆったりと穏やかな所です。そこには、前任の播磨国の守で、最近出家した男がいまして、たいそう娘を大事に育てているのですが、その家は非常に素晴らしくございますよ。その男はとある大臣の家系で、普通なら出世するはずだったのですが、大変なひねくれ者でして、宮仕えもせず、近衛の中将の位も捨てて、自分から望んで播磨国の守に就任したのです。しかし、現地の人にも少し軽く見られて、辞することになったものの、生来の頑固な気質から、都に戻るなどあり得ない、面目が立たない、と言って仏門に入ってしまいました。山奥に籠もるでもなく、海辺に住んでいるというのはひねくれているようではありますが、播磨国にも出家した人が籠もるのにふさわしい場所はあちこちにあるものの、深い山里は人気がなく、ぞっとするほどの寂しさで、若い妻子がつらく感じるに違いないから、という理由と、またもう一方で、入道自身の心を晴らすために造られた屋敷でございます。先日、播磨に行くことがありまして、その時に入道の様子を見に立ち寄ってみたところ、京にいた頃はパッとしませんでしたが、明石では広大な敷地に立派に家を建てて住んでいる様子で、法師が暮らす屋敷としては似つかわしくない感じですが、そうはいっても、国司時代に造ったものなので、余生をゆったりと過ごそうという心構えもまたとはないものでした。来世にむけての勤行も熱心にしていて、仏門に入って、以前より人格が立派になった人物です」 [3]
「で、その娘というのは?」
と光る君がお尋ねになります。
「容貌も気立てもなかなかのものです。代々の播磨の国司が思いを掛けて求婚の意志を見せたのですが、入道はまったく受け入れず、『我が身がこのように落ちぶれてしまった以上、もうこの娘一人のことしか望みはないのだ。この娘にかける思いは格別である。もし、私が死んだ後、その志がとげられず、思い通りにならない前世からの因縁だったならば、娘よ、海に身を捨てなさい』と、日頃から遺言をしているそうです」
と申し上げるお話を、光る君は面白がって聞いていらっしゃいます。
「海竜王の后にでもなるのだろう。随分な箱入り娘のようだ」
「理想が高いことよ、やっかいだなあ」
などと人々は笑うのでした。
この明石の入道と娘の話をした男は、播磨の守の子で、今年になって六位蔵人から五位に昇進した者でした。
「この男は大の女好きだから、その入道の遺言を破ってやろうと思っているんだろうよ」
「ああ、きっとそういうつもりでうろついているに違いない」
などと言い合いつつ、一方で、
「いやまあ、そうはいっても田舎者はなあ」
「小さい頃からそんな所で育って、古風な親に従っているだけの者では」
「母親の方は由緒があるのだろう」
「良い女房や女の子などを、つてをたどって京の良い家柄から迎え入れ、まばゆいばかりに大事に育てているそうだ」
「大事な娘が風情のない人間に育っていったら安心して置いておけないだろうからなあ」 [4]
光る君も、
「どうして、海の底に、とそこまで深く思い込んでいるのだろう。身投げなんてみっともないし、海底の景色も見苦しいだろうに」
などとおっしゃりつつ、まんざらでもなくその女のことをあれこれ考えていらっしゃるのでした。
「このような御病気の折でも、風変わりなことをお好みになる御気性だから気に掛かるのだろうなあ」
と思って拝見しておりました。
「日も傾いてきたが、熱の発作は出ていらっしゃらないようだ。早く京へお帰りになるのがよいと思うのだが」
と供の者がいうと、聖が、
「御物の怪などが取り憑いているようです。今夜は念のためここで静かに加持祈祷をしてさしあげ、明朝お帰りになるのがよろしいでしょう」
と申し上げると、従者たちは、それももっともなことだと思い、光る君にそのようにお話ししました。光る君はこのような旅寝はあまりご経験がないので、さすがに興味を覚えて、
「ではそうしよう。夜明け前にここを出るぞ」
とおっしゃいました。
日もたいそう長く、手持ちぶさたなので、夕暮れの濃い霞に紛れて、先ほど発見した小柴垣の綺麗な屋敷の様子を見におりて行きなさるのでした。惟光朝臣以外は僧坊へお帰しになり、二人で中の様子を覗きなさると、西側の部屋で仏像を据え申し上げて念仏を唱えている尼が見えました。簾を少し巻きあげて、仏様にお花が供えられているようです。[5]
建物の中程の柱に寄りかかって座り、肘掛けの上に経を置いて、たいそう苦しげに読み上げている尼君はただ者ではないように見えました。四十過ぎくらいで、顔はとても白く上品で、痩せてはいましたが、顔つきはふくよかで、目もとの雰囲気や、美しく切りそろえた後ろ髪の裾なども、かえって、長く伸ばしているのよりも新鮮でいいなあ、としみじみご覧になっていました。
美しい女房が二人ほどいて、他に子どもたちが出たり入ったりして遊んでいます。その中に、十歳ほどと見受けられて、白い衣に着古した山吹色の上着を重ねて走ってくる女の子がいました。他の大勢の子とは似ても似つかず、非常に美しく成長していく姿が目に浮かんで、それはそれはかわいい顔立ちでした。髪は、扇を広げたように広がってゆらゆらとし、泣いているようで、涙を拭うのにこすったせいで顔を赤くして尼君の隣に立っています。
「どうしたのです。子どもたちとけんかでもなさったのですか?」
といって尼君が見上げた顔と、その子は少し似ていたので、光る君は親子だと思ってご覧になります。
「雀の子を、いぬきが逃がしちゃったの。伏せ籠の中に入れて飼っていたのに・・・」
といって、非常に残念がっていました。座っていた女房は、
「またあのうっかり者ね。こういうへまをして叱られるのは本当に気に入らないわ。雀はどこへ行ってしまったのでしょう。だんだんかわいくなってきたのに。カラスが見つけていじめたりしたら大変」
といって雀を探しに行きました。髪の毛は多くて非常に長く、綺麗な女のようです。周りから「少納言の乳母」と呼ばれているようなので、あの女の子の乳母なのでしょう。[6]
尼君が、
「なんて子供じみたことを。仕方のない人ですね。私がこうして今日明日にも死んでしまうかもしれないという時に、雀に夢中でいらっしゃるとは。そもそも、生き物を閉じこめて飼うなんて、罪なことだといつも申し上げていますのに。情けないことです」
といって、近くに呼び寄せると、女の子はかしこまって座っています。とてもかわいらしい顔立ちで、眉のあたりがほんのりと美しく、子どもっぽく掻きあげたおでこのあたり、髪のはえ具合など、非常に美しくございました。
光る君は「成長していく姿を見たいものだ」と目を留めていらっしゃいます。しかし、
「この上なく思いを寄せている藤壺様にとてもよく似ているからつい見入ってしまうのだ」と思うにつけ、涙がこぼれるのでした。
尼君は、女の子の髪を掻きあげながら、
「櫛を通すのをいやがりなさるけれど、美しい髪の毛ですね。しかし、あなた自身がとても頼りなくいらっしゃるのがしみじみ悲しく、心配ですよ。これくらいの年ごろで、非常に大人びたひとも世の中にはおりますのに。亡き姫君は、十二歳で父親に先立たれた時、十分に分別はありましたよ。今、私があなたを残して先立ったら、どうやって生きていくのでしょう」
といって激しく泣くのをご覧になると、光る君まで無性に悲しい気持ちになるのでした。[7]
女の子は幼いながらも、さすがに尼君を見つめたあと、しょんぼりと下を向きました。こぼれるように前に垂れた髪の毛は美しく艶があって素晴らしく見えました。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき
〔これからどこでどのように成長していくのかも分からない、若草のような姫君を後に残しては、露が消えるようには簡単に死ねないという気がすることです〕
また、そばに座っている女房も、「本当に・・・」と泣きながら、
初草の生ひゆく末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらん
〔芽生えたばかりの初草のような姫君がどのように成長していくかも知らずに、どうして露のように消えようとなさるのでしょうか〕
と申し上げるうちに、僧都がむこうからやって来て、
「ここは外から丸見えではありませんか。まあ、今日に限ってこんな端の方にいらっしゃったものですね。この上に住む聖の所に、源氏の中将が、熱病の祈祷のためにいらっしゃったということを、私もつい今し方聞きつけたところです。人目につかないよう厳重に警戒していらっしゃったそうで、私もまったく知らずに、こんな近くにいながら、まだお見舞いにも伺っておりません」
とおっしゃると、
「あらまあ、たいへん。この醜い姿を見られてしまったかしら」
といって、簾を下ろしてしまいました。
「世間でその美しさが大騒ぎとなっている光源氏様を、このような機会に拝顔なさってはいかがですか。私のような世を捨てた法師の心にも、あまりの美しさに世の中の愁えも忘れ、寿命も延びるような気がする、それほど素晴らしいお方ですよ。さて、では私はご挨拶に伺うとしましょう」
と言って立つ音がしたので、光る君もお戻りになるのでした。[8]
「かわいい子を見たものだなあ。女好きな連中がこんな外出ばかりしてうまいこと予想外に良い女を見つけてくるのはこういうことだったのか。たまたまこうして出かけただけでこうして思いがけないことがあるんだから」
と面白く思っていらっしゃいます。
「それにしても非常にかわいらしい子だったなあ。どういう人なんだろう。藤壺様の代わりとして、毎日の慰めに見ていたいものだな」と真剣に思い始めているのでした。
光る君が横になっていらっしゃるところに、僧都の御弟子が惟光を呼び出させました。狭い所だったので、光る君もそのままお聞きになっています。
「ここに光る君が訪れていらっしゃるということを今さっき人が申しましたので、驚きました。すぐにもご挨拶に伺うべきだったのですが、それにしても、私がここの寺に籠もっておりますことをご存知のはずなのに、その私にもお知らせくださらなかったことが残念に思われてなりません。御寝所も私の僧坊にご準備するべきでしたのに。とても残念です」
と申し上げなさいました。
「今月の十日過ぎから、熱病を患っておりましたもので。熱の発作が頻繁で耐えがたかったので、人に教えられるまま、急遽この山に入りましたが、熱病の祈祷の名人とされる人が、もし失敗した時はさぞ体裁が悪いに違いないことで、普通の人が失敗するのよりも気の毒に思われまして、人目を憚って、ひっそりと訪れたのです。今そちらに参りましょう」
と惟光を通しておっしゃいました。それからすぐに僧都が参上なさいました。この僧都は出家した法師ではありましたが、容姿も人柄も立派で、世の中から重んじられていらっしゃる人なので、光る君はご自身のお忍びの軽装を気恥ずかしく思っていらっしゃいました。このようにして籠もってきた間のお話などを申し上げなさって、
「ここと同じ柴の庵ではありますが、我が僧坊の少し涼しい水の流れもご覧に入れましょう」
と熱心に申し上げなさるので、さっき、まだ光る君を見ていない家の人たちに大袈裟に言い聞かせていたのをきまり悪くお思いになりましたが、あの少女のかわいらしい姿を見たいので、お出かけになることにしました。[9]
なるほど、同じ木草でも、たいそう格別に趣深く植えていらっしゃいました。月もない時分だったので、遣り水にかがり火を灯し、灯籠などにも火を入れておりました。南に面した部屋をとても綺麗にしつらえていらっしゃいます。どこからともなく漂ってくる奥ゆかしいお香の他、仏前に焚くお香など、素晴らしい香に満ちており、更に光る君に吹く追い風もたいそう格別なので、奥の部屋にいる人々も気遣いをしているようでした。
僧都は、この世の無常について、また来世のことなどを光る君にお話し申し上げなさいます。
「私の罪は恐ろしく、どうにもならない藤壺の宮のことにばかり心を奪われていては、生きている限りそのことで思い悩んで終わるに決まっている。まして来世は非常に苦しむことになるだろう」と思い続けなさり、仏門に入ってこのような暮らしをしたいとも思いなさりつつ、昼に見た少女の面影が気にかかり、恋しいので、
「ここにいらっしゃるのはどなたですか。お尋ねしたい夢を以前に見たことがあったのです。今日その夢の意味が分かった気がします」
と申し上げなさると、僧都は笑って、
「唐突な御夢語りでございますね。その娘を尋ね当てなさっても、がっかりなさるだけでしょう。故按察大納言は、亡くなってひさしいのでご存じないでしょうね。その正妻が私の姉だったのです。その按察大納言がお亡くなりになった後、姉も仏門に入ったのですが、近ごろ病気を患いまして、私も京へ出向くことがないものですから、私を頼ってここに籠もっているのです」
「その大納言には娘がいらっしゃると聞いたことがありましたが。いや、別に下心があるわけではなく、まじめな話として申し上げております」
と当てずっぽうにおっしゃってみると、
「一人だけ娘がいましたが、死んでからもうかれこれ十数年になるでしょうか。亡き大納言はその娘を入内させるつもりで非常に大切に育てていたのですが、その思いはかなわずに死んでしまいましたので、この尼君がたった一人で娘を大事に育てておりました間に、どのような人の手引きだったのでしょうか、兵部卿の宮が密かに通うようになって結ばれなさったのを、兵部卿の正妻はご身分も高かったもので、娘にとっては気が気でないことばかりが多く、常に物思いをするようになって、とうとう亡くなってしまったのです。物思いから病気になるものだということを目の当たりにしましたよ」[10]
「ではその子だったのか。天皇家の御血筋だから藤壺様の面影があったのだろうか。家柄も高貴で素晴らしく、なまじっか変な知恵もまだないようだから、今のうちから親しくなって、私の理想の女性になるよう育ててみたいものだ」とお思いになっておりました。
「それはたいそうお気の毒な話ですね。その娘には子はいらっしゃらなかったのですか?」
と、幼い少女の将来を考える上でも、いっそう確かなことを知りたくてお尋ねになったところ、
「亡くなる少し前に一人生まれました。それもまた女の子でして。年老いた尼君はその子の行く末を心配しておりまして、それが物思いの種となって嘆いているようです」
と申し上げなさるので、光る君は「やはりそうか」とお思いになりました。
「変な話に聞こえるかもしれないが、私をその少女の世話役にするよう尼君に申し上げてくださいませんか。私には正妻もいるのですが、どうにも心が寄り添わないようで、一人で過ごしてばかりいるのです。幼すぎて似つかわしくないのに、と私のことをみっともない人間だとお思いになるでしょうか」
などとおっしゃると、
「いえ、非常に嬉しいお言葉です。しかし、まだひどく幼い年ごろですから、戯れにでもご覧になれば見苦しいかと存じます。もっとも、女というのはよい男にもてはやされて一人前になってゆくものですからね。私からはっきりとお返事を申し上げることはできません。例の尼に相談して、そちらからお返事を申し上げることにしましょう」
とまじめに言い、堅苦しい様子でいらっしゃるので、光る君は若いお心にきまり悪く感じられて、上手い返答がおできになりませんでした。
「阿弥陀仏がいらっしゃるお堂で勤行をする時間です。まだ初夜のお勤めをしておりませんので。それを終えてまた参りましょう」
といって、お堂にお出向きになりました。[11]
光る君は非常に体調も悪いのですが、雨も少し降りはじめ、冷たい山風が吹いてきました。滝壺も水かさが増して、音が高く鳴り響いています。少し眠そうな読経の声がたまに途切れながら聞こえてくるのは、在俗の人にとっても、場所が場所だけにしんみりと心に染みてくるのでした。光る君は、ましてあれこれと考えを巡らせることが多くて、お休みになることができずにいらっしゃいます。
初夜と僧都はいいましたが、夜はひどく更けていました。この家に住む女たちも寝ていない雰囲気がはっきりと感じられ、とても小さい音ではありましたが、数珠が脇息に当たって鳴る音などがかすかに聞こえ、心惹かれる衣擦れの音に、優美だなあ、と光る君はお聞きになると、それほど離れた所にいるわけでもなさそうなので、部屋の外に巡らしてあった屏風を少しずらして、扇を鳴らしなさったところ、奥にいた女は心当たりがないようでしたが、聞こえないふりをするわけにもいかないと思って、膝で進み出てくる人がいるようでした。少し後ろに下がって、
「おかしいわ。空耳かしら」
とまごついているのをお聞きになって、
「仏のお導きは、暗闇の中でも決して間違えるはずがないないのですが」
とおっしゃるお声が非常に若々しく高貴だったので、返事をする自分の声が気恥ずかしいのですが、
「そのお声はどのような方面へのお導きでしょうか。私には見当もつきませんが」
と申し上げました。
「なるほど、唐突すぎていぶかしくお思いになるのも当然かもしれませんが、
初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞかはかぬ
〔初草の若葉のような幼く美しい少女を見た時から、旅寝の袖に涙の露がこぼれて乾くことがありません〕
とお伝えくださいませんか」
とおっしゃると、
「そのようなご伝言をお聞きしても分かる者など一人もいらっしゃらないということは御存じなのではありませんか?いったい誰に伝えよとおっしゃるのでしょうか」
と申し上げました。[12]
「しかるべき理由があって申し上げているのだとご理解ください」
とおっしゃると、女は奥に入ってこのことを申し伝えました。
「まあ、今風ですこと。この子が一人前だと思っていらっしゃるのでしょう。それにしても、私があの子を若草に例えたことをどうして光る君は聞き知っていらっしゃるのでしょうか」
と、どうにも不審に思われて心も乱れましたが、返歌がおそくなっては風情がないと思って、
「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなん
〔今夜一晩こちらへ泊まって湿っぽくなったというだけで、深い山奥の苔のそれと比べないでください〕
とても乾きそうにございません」
と申し上げなさいました。
「このような、人づてのお返事はいまだ経験がなく、初めてのことです。畏れ多いことかもしれませんが、せっかくの機会なので真剣にお話し申し上げたいことがあるのです」
と申し上げなさると、尼君は、
「何か間違ったことをお聞きになっているのでしょう。あまりにも立派なあの方の気配を前にしてはお返事を申し上げることなどできません」
とおっしゃるので、女房たちが、
「しかし、気まずい思いをおさせするのもいかがなもでしょうか」と申し上げます。「確かに、あの幼い子をお会わせするのは良くないでしょうが、真剣におっしゃっているのを無下にお断りするのも畏れ多いですことですね」
といって、光る君の方に進み出なさいました。
「唐突で、軽率だとあなたはお思いになるかもしれませんが、私にはそうも思われないので、仏様もきっとお咎めにはならないでしょう」
とおっしゃるものの、年長の尼君の立派な雰囲気に気が引けて、すぐに話を切り出すことがおできになりません。
「なるほど、このような所でお会いすることになるとは思いも寄らなかったことで、このようにあなた様がおっしゃり、私もお話申し上げるというのは深い前世からの因縁があるようにも思えます」
とおっしゃいました。[13]
「こちらで暮らしておられる姫君の悲しい境遇についてお聞きしました。私を、そのお亡くなりになった母君の代わりと思っていただけないでしょうか。とても幼いころに、私に愛情を注いでくれるはずだった母に先立たれたものですから、ふらふらと、根無し草のようにしてこれまでの年月を過ごしてきました。私と似た境遇でいらっしゃるとのことなので、一緒に暮らしたいと心から申し上げたいのです。こうしてお話しする機会というのもなかなかないでしょうから、これを聞いた尼上がどうお思いになるだろうかということも憚らずにお話ししました」
と申し上げなさると、
「非常に嬉しいお話ではございますが、あの子のことについて、何かお聞き間違いをなさっているのではないかと気が引けてしまいます。卑しい私ひとりを頼りにしている子ではありますが、本当にまだどうしようもなく幼い年頃でして、大目に見ていただける感じでもございませんので、今のお話を真に受けることはできません」
とおっしゃいます。
「事情はすっかりお聞きしたうえで申し上げているのです。煩わしいと遠ざけなさらず、私が思いを寄せているその真剣さをご覧ください」
と申し上げなさいましたが、まったく似つかわしくないことをご存じなくておっしゃるのだとお思いになって、気を許したお返事はありませんでした。
そこへ僧都が戻っていらしたので、
「よし、こうして話は前に進んだわけですから、非常に頼もしいことです」
というと、先ほど少し開けた屏風をお閉めになりました。
夜明けが近づいてきたので、法華三昧を行うお堂の懺法の声が山を吹き下ろす風に乗って非常に尊く聞こえてきて、瀧の音と調和しておりました。
「吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす瀧の音かな」
〔吹き乱れる深山おろしの風に乗って届く法華三昧の尊い声に夢のような思いも覚めて、瀧の音に涙が誘われることです〕
「さしくみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやはする
〔不意の御訪問で山水の音に涙で袖を濡らしたとのことですが、ここ住んでいる私の心は澄んだままで特に何も感じられません〕
耳慣れてしまったのでしょうか」
と申し上げなさるのでした。[14]
夜明けの空は霞が立ち籠め、山鳥がどこかでさえずっているのが聞こえてきます。名も知らぬ木や草の花が色とりどりに咲き乱れ、錦を織ったように見え、鹿があたりをうろうろと歩き回っているのを目新しくご覧になっているうちに、病の苦しさもすっかり紛れてしまっているのでした。
聖は動くこともままならぬ身でしたが、どうにか下りてきて、光る君のために護身法をして差し上げなさいます。陀羅尼を読む声は、修行の功が積もった感じのしみじみする枯れた声で、歯の隙間からわずかに漏れてきます。
お迎えの人々が参上して、快復なさったお祝いを申し上げ、帝からの使いもありました。僧都は、見たこともないような果物を、何やかんやと谷の底まで取りに行かせ、おもてなしなさいます。
「今年中は山に籠もる深い誓いを立てておりますので、光る君のお見送りに参上でないのは、我ながら中途半端な心持ちがいたしますよ」
と申し上げなさって、お酒を差し上げなさいました。
「滝の音に心惹かれていたのですが、帝まで心配してお使いをくださったというのも畏れ多くございますので。今のこの花の時期を逃さずにまたこちらへ参ることにしましょう。
宮人に行きて語らむ山ざくら風よりさきに来ても見るべく
〔内裏に帰って宮人に語ることにしましょう。山ざくら風が吹いて花が落ちてしまう前に来て見ることができるように〕
とおっしゃる時の御ふるまいや声づかいもまばゆいほどだったので、
「優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね」
〔光る君の来訪は、三千年に一度だけ咲くという優曇華の花が咲いたかのような心地がして、山桜には目もとまりません〕
と申し上げなさると、光る君は微笑んで、
「三千年に一度花開くのに立ち会うというのは難しそうですが」
とおっしゃるのでした。聖は光る君から杯を授かって、
「奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花の顔を見るかな」
〔山奥に住む我が庵の松の戸を珍しく開け、いまだかつて見たことのない花のように美しい顔を見たことですよ〕
と涙をこぼしながら光る君を見申し上げておりました。[15]
聖は、お守りとして獨鈷を献上しました。それをご覧になった僧都は、聖徳太子が百済から手に入れなさったという金剛子の数珠に宝石をあしらったものを、同じく百済から手に入れた中国風の箱に入れて、それを透けた袋に入れて五葉松の枝をつけ、そらから紺瑠璃の壺に薬を入れて、藤や桜の枝をつけたものなどなど、いかにもこの場所にふさわしい贈り物を光る君に献上なさいます。
光る君は、聖をはじめとして、読経してくれた法師へのお布施や様々なお礼の品を自邸へ取りに行かせていたので、この山に住む木こりにまでしかるべき物をくださり、重ねてお布施をして出なさいました。僧都は家に入りなさって、光る君がおっしゃったことを、そのまま尼君にお伝えなさったのですが、
「今はどうにもお返事を申し上げようがございません。もし御本心であるならば、あと四、五年経ってから考えることにしましょう」
とおっしゃるので、僧都は、
「ごもっとも」と尼君と同じ気持ちでいるようなのを光る君は不本意にお思いになって、僧都の家の小さいこどもにお手紙を託しなさいました。
「夕まぐれほのかに花の色を見て今朝はかすみの立ちぞわづらふ」
〔昨日の夕暮れに花のように魅力的な人を見たために、霞が立ち籠める今朝、ここをたつ決心がつかずにいます〕
「まことにや花のあたりは立ち憂きとかすむる空の気色をも見む」
〔本当に、この花のあたりを離れにくいのでしょうか。そのお気持ちがどの程度のものなのか見てみたいものです〕
風情のある、とても上品な字を無造作に書いていらっしゃいました。光る君が車にお乗りになろうとした時に、左大臣家から、
「行き先もおっしゃらずにお出かけになるなんて」
といって、御子息やお供の人がたくさんお集まりになりました。頭の中将や左中弁、その他の貴公子も光る君をお慕いして、
「このようなお出かけには喜んでお供いたしますのに。私たちを置いてお出かけになるとは」
と恨み言を申し上げて、
「たいそう素晴らしい桜の下に足も止めずにすぐ帰るというのはもったいないなあ」
とおっしゃっておりました。[16]
岩陰の苔の上に並んで腰を下ろすと、お酒を召し上がることにしました。落ちてくる水の様子など、風情ある瀧の景色が近くにございます。
頭の中将は懐から笛を取り出して一心に吹き鳴らしました。左中弁は扇をちょっとうち鳴らして、「豊浦の寺の西なるや」と謡います。光る君はひどく辛そうに岩に寄りかかっていらっしゃっていましたが、それはそれで比べようもないほど美しいお姿で、他の物には目移りなどするはずもないといったご様子でした。例の篳篥を吹く随身や笙の笛を持たせている風流人などもいます。僧都は琴を持って出て来て、光る君に、
「どうぞ、一曲お弾きになって、山の鳥を驚かせてみてください」
と真面目に申し上げなさると、
「苦しくてとても耐えがたいのに・・・」
と申し上げつつも、魅力的に掻き鳴らした後、みなを連れだって京へとお帰りになってしまいました。残念だ、もっといてほしかった、と取るに足らない法師や子どもも涙を流していました。まして、僧都の家では、年老いた尼君などは、いまだかつてあのように美しいお姿を見たことがなかったので、
「この世のものとも思えませんでした」
と口々に申し上げています。僧都も、
「ああ、何の因果であのように素晴らしい御容姿でありながら、たいそう煩わしいこの日本国の末世にお生まれになったのだろうかと考えるとまことに悲しいことだ」
といって、涙をぬぐっていらっしゃいました。
例の幼い少女も、幼いながら、素晴らしい人だ、とご覧になって、
「父上の宮様よりも素晴らしくいらっしゃったわ」
とおっしゃいました。それを聞いた女房が、
「ではあのお方の子におなりになりますか」
と申し上げると、頷いて、そうなったらとても良いだろうなあ、とお思いになっていました。
それからというもの、少女は雛遊びをしても絵を描いても、源氏の君を作り出して、綺麗な衣装を着せて大事そうにしていらっしゃるのでした。[17]
光る君はまず内裏に参上なさって、この数日のお話を帝に申し上げなさいました。光る君を見た帝は、ひどくやつれてしまったことだ、不吉な感じがする、とお思いになっております。聖の尊さなどをお尋ねになるので、詳しくお話し申し上げなさると、
「阿闍梨などになるべき人物であるようだな。修行の功徳がそれほど積もってるのに朝廷には知られなかったとは」
と尊いものだとお感じになり、おっしゃっいました。義父の大臣もそこに参上なさって、
「お迎えにあがろうと思ったのですが、お忍びの外出でいらしたので、それもどうかと思って遠慮してしまいました。のんびりと一日二日お休みください。すぐに我が邸にお送りしましょう」
と申し上げなさると、さほど気乗りなさいませんでしたが、お言葉に引かれて内裏を退出し、大臣邸へとお出かけになるのでした。大臣は光る君を自分の御車の上座にお乗せ申し上げなさって、ご自身は下座にお乗りになります。あまり丁重にもてなされることを、光る君はさすがに心苦しくお思いになりました。
邸でも、光る君がお越しになるのだからと心づかいをなさっており、しばらくご覧にならないうちに、邸内はますます美しく磨きあげたようにすべてが整っているのでした。女君は、例によって逃げるように身を隠したまますぐにはお出ましになりません。父大臣に何度も促されてやっと光る君のもとにいらっしゃいました。
絵に描いた姫君のように座らされて、身じろぎをすることさえ難しく、端正できちんとしていらっしゃるので、心に思うことをちょっと言い、北山での話を申し上げると、その甲斐あって魅力的に返事をなさる、といった感じであれば、しみじみと心惹かれるのでしょうが、女君はまったくうち解けることがなく、光る君のことを疎ましく気恥ずかしいものだとばかりお思いになって、しかも年を重ねるごとに、心の隔たりがましていくので、非常に心苦しく、思わず、
「たまにはあなたのくつろいだご様子を見たいものですね。耐えがたいほど苦しんでおりました時にも、『具合はいかがですか』とさえお尋ねくださらないのが、まあ、いつものことであなたらしいといえばそうなのですが、やはり残念でなりません」
と申し上げなさると、かろうじて、
「あなたにとっても訪ねないのはつらいものだったのですか」
と、流し目で光る君に目をおやりになる目もとは、気詰まりがしそうなほど気高く美しい御容貌でした。[18]
「久しぶりにお話しになったと思えば、驚いたことを。訪れがない、などというような関係ではないでしょう。つらいことをおっしゃるものですね。いつもそっけない対応をなさるのも、もしかしたらお心が改まる時がくるかもしれないと、あれこれ試している間に、ますます私を疎んじなさるようになっていくようですね。まあ仕方ない、生きてさえいればそのうちに」
といって寝室にお入りになりました。女君はそのままじっとしていてお入りになりません。お声をかけるのも面倒になって嘆きながら臥しなさってしまったのは、やはり何となく気に入らないのでしょうか、眠たそうにしながら、夫婦の関係について何やかやとたいそう思い乱れなさっておりました。
と同時に、北山の少女がやはり気になって仕方ないご様子で、
「結婚には似つかわしくない年頃だと尼君が思っているのも当然のことだな。言い寄るのが難しいけれど、どうにか迎え取って毎日の心の慰めに見ていたいものだ。兵部郷の宮様は非常に高貴で優美ではあるが、華やかさには欠けるのに、あの少女はどうして藤壺様に似ていらっしゃるのだろう。兵部郷の宮様と藤壺様は母親が同じお后だからだろうか」などとお思いになっております。
その血のつながりが非常に慕わしく思えて、何としても手に入れたいとお思いになっておりました。[19]
翌日、北山の尼君にお手紙をお送りになりました。僧都にもさりげなくお送りになるようです。尼君には、
「真剣に取り合ってくださらなかったのに気が引けて、私の思いをきちんと伝えることが出来ずじまいになってしまいました。このように申し上げるだけで私の並々ならぬ真剣な思いをお分かりいただけたらどんなに嬉しいことでしょう」
などと書き、その中に小さく結んだ文が挟んでありました。
「おもかげは身をも離れず山ざくら心のかぎりとめて来しかど
〔山桜のように魅力的なあなたの面影が私の脳裏を離れません。私の心はすっかりそちらにとどめて来たのですが〕
夜中に吹く風で桜が散ってしまうように、あなたがどこかへいなくなってしまわないかと心配で」
とありました。筆跡の見事さはもちろんのこと、ただちょっと包んでいらっしゃる雰囲気さえも、高齢の尼君の目には鮮やかに映り、好ましく思えるのでした。
「なんときまりの悪いことを。どのようにお返事を差し上げたらよいでしょう」
とお困りになりましたが、
「先日のお話は冗談だと思ったのですが、わざわざお手紙までくださるとはどうお返事してよいものかと困っております。あの子はまだ最初の手習いの『難波津』さえきちんと書けない、不甲斐ない子です。それにしても、
嵐吹く尾上の桜ちらぬまを心とめけるほどのはかなさ
〔山から吹き下ろす風で山の桜はすぐに散ってしまうものですが、散らずに咲いているわずかな間だけ心をお留めになるとはなんとも頼りないことです〕
ますます不安なことです」
とお返事なさいました。僧都からの返事も同じようなものだったので、がっかりした光る君は二、三日してから惟光を差し向けなさることにしました。[20]
「少納言の乳母という人がいるはずだ。それを訪ねて綿密に話をして参れ」
などとお命じになりました。
「それにしても抜け目なく休まらないお心だなあ。あんなに幼い様子だったのに」
と、僅かに見たときのことを思い起こしておかしく思っておりました。わざわざこのようにお手紙があるのを、僧都も恐縮していらっしゃいます。惟光は取り次ぎを頼んで少納言の乳母に面会しました。光る君のお心の内やご様子を、詳細にお話しになりました。口数の多い人で、もっともらしく様々に話し続けましたが、
「とても幼い年頃なのに、何を考えていらっしゃるのだろうか」と、誰もがひどく不審にお思いになっておりました。
お手紙にも、たいそう熱心にお書きになって、いつものように、その中には、
「あの姫君がお書きになった、一文字ずつを離して書いているのを、やはり見たいものです」と書いて、
「浅香山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ」
〔姫君への思いは決して浅くはないのに、どうして私からかけ離れてしまうのでしょうか〕
とあった、その返歌には、
「汲みそめてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき」
〔山の井戸の水を汲もうとしてあまりの浅さにがっかりするように、あなたの心は浅いままでしょうから会わせてさしあげることなどできません〕
とあり、惟光もまた同じようなことを申し上げました。
「あの尼君の御病気が快復したら、数日やり過ごして、尼君が京の邸にお戻りになってからお話し申し上げるのがよいでしょう」
というのを、じれったくお思いになりました。[21]
さて、その頃、藤壺の宮様がご病気を患って里下がりをなさることがありました。帝がそれはそれはご心配なさり、お嘆きになるご様子を、光る君はたいそうお気の毒に拝見しながらも、せめてこのような機会に藤壺の宮様にお会いしたい、と心はそちらの方にばかり引きつけられて、他の女性の所へはまったくお出かけになりません。内裏にいる時も自邸にいる時も、昼はしみじみと物思いに耽って過ごし、日が暮れると藤壺の宮様にお仕えする王命婦に取り次ぎをお求めになってばかりいらっしゃいます。
どのように計略を巡らしたのでしょうか、大変な無理をおかして密会することができた、その間さえ、それが現実ではないような気がしなさるのが、光る君にとっては悲しいことのようでした。
藤壺の宮様も、過去にもあった恐ろしい密会を思い出しなさるだけで、常に物思いの種となるので、あれきりでおしまいにしよう、と深くお心に決めていらっしゃったのに、またしてもこのようなことになったのが非常につらくてたまらないご様子でした。
心惹かれる可憐なお姿でありながら、お心は許さず、思慮深く威厳のある御振る舞いなどは、やはり唯一無二の存在でいらっしゃるので、どうしてほんの少しも非の打ち所がなくていらっしゃるのだろう、と思うと、光る君はつらくさえお思いになるのでした。
いつも暗い、という名を持つ暗部の山だったなら、泊まっていつまでもともに過ごしたいのですが、あいにくの短い夜なので、話したいことも十分に申し上げることがおできにならず、何だか惨めな気がして、こんなことならかえってお会いしない方がよかったのではないかとさえ思われるほどでした。[22]
見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな
〔今夜こうしてお会いしましたが、次にお会いできる夜はいつ来るのでしょうか。夢のような心地がする今、いっそのことその夢の中に紛れてしまいたいものです〕
とひどくお泣きになる様子を前にすると、さすがにとても気の毒に思われて、
世がたりに人や伝へんたぐひなく憂き身をさめぬ夢になしても
〔世間の噂として人が伝えてしまうのではないでしょうか。この上なくつらいわが身を、覚めることのない夢の中のものということにしたとしても〕
と詠んで思い乱れていらっしゃるご様子なのも当然のことで、畏れ多いことでございました。そこへ王命婦が、光る君が脱いだ御直衣などをかき集めて持って参りました。
二条院へお戻りになった光る君は泣きながら伏せっていらっしゃいました。お手紙をお送りしても、例によって、ご覧にならないというお返事ばかりで、それはいつものことなのですが、光る君は放心状態でいらっしゃるため内裏へも参上せずに、二、三日自邸に籠もっていらっしゃいます。帝がご心配あそばされていることを想像すると、光る君は恐ろしくお思いになるばかりでございました。
藤壺の宮様も、ますますつらい身の上をお嘆きになると、病苦もますますひどくおなりになって、早く内裏へ戻るようにと帝からの使いがしきりに来るのですが、その心づもりができずにいらっしゃいました。本当に、体調の悪さが尋常ではなく長引いていることについて、
「どうしたのだろう、まさかあの夜の・・・」と人知れず思い当たることがおありになったので、
「もしそうならどうしよう・・・」と、つらく思い乱れてばかりいらっしゃいました。
宮様は、暑い頃にはほとんど起き上がりなさることもございません。身籠もって三ヶ月におなりになったので、はた目にもはっきりと分かるころで、お仕えする女房がそれを見て騒ぎたてるのにつけても、恐ろしい前世からの因縁に苦しんでいらっしゃいました。[23]
周囲にお仕えする人々はそんな秘密など知るよしもなかったので、
「このようになるまで上様にご報告を申し上げなさらなかったなんて」
と驚きながら申し上げました。
藤壺の宮様は一人お心の中で、宿したのが光る君の子であることを確信していらっしゃるのでした。藤壺様の湯浴みにも随行するなど、どんなことも親しく間近に見申し上げている、乳母子の弁や王命婦などは、「奇妙なことだわ」と思っていましたが、お互いにそのことを話し合うべきではないと判断して口には出さずにおりました。避けることの出来ない御宿命を感じた王命婦はただただ驚くばかりでございました。
内裏には、今まで何の徴候もなかったのに突然ご懐妊の様子が現れたのは物の怪のせいだ、という風にでもご報告申し上げたのでしょう。帝が藤壺の宮様をいっそう愛しくお思いになって、使いの者をひっきりなしにお寄越しになることを、宮様はそら恐ろしく思って、絶え間ない物思いをなさっておりました。
源氏の中将も、普通ではない驚くべき夢をご覧になったので、夢合わせをする者をお呼びになって尋ねなさったところ、思いも寄らない、とんでもない占いを出しました。
「その中に、意に反する事態が潜んでいて、身を慎まなければならいことになるでしょう」
というので、気が動転した光る君は、
「私自身の夢ではない。人のことを語ったのだ。現実と一致するまで人には話すな」
とおっしゃって、心の中では、どういうことだろうか、と考え続けていらっしゃいました。その時に、藤壺の宮様がご懐妊なさったことを聞いたので、「もしや、そのことだろうか」と思い当たりなさって、いっそう言葉の限りを尽くして宮様にお会いしたいと申し入れなさるのですが、先だっての協力者だった王命婦もさすがにたいそう恐れており、こうなったからにはやっかいさも増していたので、計略を巡らして密会を手伝うすべなどあるはずもございません。ほんの一行ほどのお返事がまれにはあったのも、今やまったくなくなってしまったのでございます。[24]
七月になって、藤壺の宮様はようやく内裏へとお戻りになりました。類を見ないほどに、この上なく愛おしくお思いになる帝の愛情はいよいよ深まっていきます。お腹が少し大きくおなりになって、お顔は愁いを帯びてお痩せになっているのも、それはそれで本当に比べるものもなく素晴らしくございました。
例によって、帝はずっと藤壺にばかりいらっしゃって、管絃のあそびをするのにも、趣が次第に増してくる季節になってきたので、帝は源氏の君なども常々側にお呼び寄せになって、琴や笛などをあれこれ演奏させなさいます。
光る君はお気持ちを厳重に包み隠しなさるのですが、堪えきれずに、思わず表に出てしまうこともあって、そのような時は藤壺の宮様もさすがに光る君を思わずにはいられませんでした。
さてその頃、北山の尼君はすこし快復したので山寺を出て京の自邸へお戻りになりました。光る君は、その居所をつきとめて、時々お手紙を差し出しなさいます。お返事が以前と変わらぬままであるのは当然のことですが、この数ヶ月というもの、以前とは比べものにならない物思いのために、それをどうにかしようという熱意もありませんでした。
秋も終わり頃、光る君はたいそう心細い感情に襲われて、連日お嘆きになっておりました。そんな中、ある趣深い月の夜に、こっそりとお通いになる所に行ってみようとかろうじて思い立ちなさったところ、時雨のような雨がさっと降ってきました。お出かけになる所は六条京極のあたりで、内裏から向かったために少し遠い気がしていると、途中、古びた木立が暗く生い茂っている家が見えてきました。[25]
例によって光る君のお供として付き従っている惟光が、
「亡き按察大納言の家でございまして、とあるついでに訪ねてみたところ、例の尼上はひどく弱りなさってしまっているので何も分からない、と申しておりました」
と申し上げると、
「気の毒なことだ。お見舞いするべきだったのに、どうして早く教えてくれなかったのだ。中へ入って挨拶してきなさい」
とおっしゃるので、人を入れて取り次ぎを求めました。六条の愛人の所へ行くことは伏せ、わざわざやって来たように言わせたので、すんなりと中に入った惟光は、
「光る君様がお見舞いにいらしております」
と言うと、家の者は驚いて、
「大変もったいないことです。この数日、ひどく弱々しくおなりになってしまったので、御対面は難しいかと存じます」
とは言うものの、そのままお帰し申し上げるのは畏れ多いので、南の廂の間をしつらえて、光る君をお迎えしました。
「たいそう不体裁な所ですが、わざわざお出でくださったお礼だけでもしなければと思いまして。思いもよらない、薄気味悪い御座所だとお思いになるかもしれませんが」
と申し上げました。確かにこのようなのはいつもと違うことだと光る君はお思いになっておりました。
「お見舞いに伺うことは常々心に決めていたのですが、張り合いのないお返事ばかりをくださるので、気が引けてしまっていたのです。しかし、ここまで重い病でいらっしゃるとお聞きしていなかったのは歯がゆい思いがします」
などと申し上げなさるのでした。[26]
尼君がおっしゃいました。
「気分がすぐれないのは、いつものことなのですが、このように死も間近になりまして、たいそう畏れ多くもお立ち寄りくださったのに、直接応対できずに申し訳ございません。以前からおっしゃっている姫君の件ですが、もし万が一お気持ちが変わらないのでしたら、今のように無理な年齢が過ぎましてから、どうかご寵愛くださいませ。あの子を残してゆくのは心配で心配で、こんなにもこの世に未練が残っていては、極楽往生の妨げになるのではないかと思われてなりません。それにしても、このようにわざわざお見舞いにお越しくださったことは非常に畏れ多いことでございます。せめて、姫君がお礼を申し上げることがおできになるような年齢であればよかったのですが・・・」
などと、取り次ぎの者に申し上げなさいましたが、距離がとても近いので、心細く弱々しい御声が途切れ途切れに聞こえてきて、光る君はしんみりしたお気持ちになり、
「どうして、いい加減で浅はかな気持ちからこのような物好きで好色めいたお願いを申し上げたりしましょうか。どういう宿命か、初めて姫君を見申し上げた時から、こんなにもしみじみ愛しく思われたのも不思議なことで、前世からの運命を感じずにはいられません。せっかくこうしてやってきたのですから、あのあどけない御声をほんの一言だけでもお聞きしたいものです」
とおっしゃると、
「いやはや、何もお分かりになっていない様子で、もうお休みになってしまいまして」
などと女房が申し上げたちょうどその時に、向こうからやってくる音がして、
「お祖母様、あの山寺にいた源氏の君がいらっしゃっているというのに、どうしてお会いにならないのですか」
とおっしゃると、女房たちは、非常に気まずく思って、
「お静かに」
と申し上げました。
「あら、源氏の君のお姿を見たら具合が良くなった、って前にお祖母様がおっしゃっていたから言っているのよ」
と、ご自身では良いことを思い出して言っていると思っておいでのようでございます。非常におかしく聞いていらっしゃった光る君でしたが、女房や尼君が心苦しく思っているので、聞こえないふりをして、まじめなお見舞いの言葉を残してお帰りになりました。[27]
光る君は、「確かに幼稚な感じはするな。しかし、私がしっかりと教育しよう」とお思いになっているのでした。次の日もまた熱心にお見舞いの手紙を差し上げなさいます。例によって小さな結び文に、
「いはけなき田鶴の一声聞きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ
〔あどけない姫君の一声を聞いてからというもの、舟が葦の生い茂る水辺をなかなか進めないように、行くに行かれぬ道に思い悩んでおります〕
同じ人を思い続けているせいでしょうか」
と、あえて子ども向けにお書きになっているのも非常に素晴らしく思えたので、
「これをそのまま姫君の書のお手本にしましょうね」
と女房たちは姫君に申し上げます。そして少納言がお返事をお書きしました。
「気に掛けていただいている尼は、今日明日とも知れない様子で、また山寺へ参ってしまいました。このようにお尋ねくださったお礼は、あの世からでも申し上げることでしょう」
光る君はしみじみと非常に悲しいお気持ちになっておられました。
秋の夕暮れ時は、絶え間なく藤壺の宮様のことを思って心を乱していらっしゃり、その姪である姫君を是が非でも訪ねたいという気持ちもますます強くおなりになるようです。以前、尼君が「簡単には死ねそうにない」と詠んでいた夕暮れのことが思い出されて、恋しくてしかたないものの、実際に会ったら見劣りしないだろうか、と心配でもあるのでした。
手に摘みていつしかも見むむらさきの根にかよひける野辺の若草
〔早くこの手に抱き寄せてみたいものだ。あの藤壺の宮様の姪でいらっしゃる姫君を〕
十月には帝の朱雀院への行幸が行われることになっていました。それに際して、舞人などには高貴な家の子が選ばれ、また上達部や殿上人なども舞楽にふさわしい者は帝がお選びになったので、親王や大臣をはじめとして、さまざまな芸能を修練なさることに余念がありません。北山へも長らくご無沙汰していたことを思い出しなさった光る君がお手紙をお送りになったところ、僧都からの返事だけがありました。
「先月の二十日ごろ、尼はついに息を引き取りました。この世に生を受けた者が死を迎えるのは道理のことではありますが、やはり悲しいものでございます」
ご覧になった光る君はこの世の無常を身に染みてお感じになり、
「尼君が気に掛けていたあの子はどうなるのだろう。幼い人だからやはり恋しがるだろうか。そういえば、私も幼くして母に先立たれたのだった」など、はっきりとではないものの、ご自身の幼い頃のことを思い出しなさり、心から哀悼の意を捧げなさると、少納言の乳母が、たしなみのある返事をお書き申し上げました。[28]
物忌みが過ぎて、京の邸に紫の君がいることをお聞きになると、しばらく時間をおいてから、穏やかな夜に六条京極の邸にお出かけになりました。たいそう寒々しく荒れていて人も少ない様子なので、どんなにかあの紫の君は恐い思いをしていることでしょう。前と同じ所に光る君をお通しすると、少納言の乳母は尼君の最期の様子などを泣きながらお話ししたので、光る君の御袖も、ただただびっしょりと濡れるばかりでございました。
「姫君のことは父宮様にお引き渡ししようという話だったのですが、亡き母宮様が、父宮様の御正室をたいそう情けない人だと嫌っていらしたものですから、幼すぎるというほどでもない年齢で、といって人の意向もお分かりにならない、中途半端な御年頃の姫君が、あちらに大勢いらっしゃる姫君方と一緒にお暮らしになっても軽く見られてしまうのではないか、などと亡くなった尼君も、常々あからさまにお嘆きになっていらしたのですが、このように畏れ多い光る君様のお言葉は、将来のことはさておき、口先ばかりだろうとは思いつつも、我々としては嬉しく思われるはずの時だったのですが、姫君はまったく御身にお似合いだとは思えませんし、年の割に幼稚でいらっしゃるので、私どもとしましても気恥ずかしくございまして」
と申し上げました。[29]
「私が以前から何度も申し出ている件について、どうして気兼ねなさっているのでしょう。あの幼い姫君に心惹かれてしみじみ愛しく思われるのも、特別な運命で結ばれているためだと思われてなりません。やはり直接私の思いをお伝えしたいものです。
葦わかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは
〔幼い姫君と対面することは難しいにしても、和歌の浦に打ち寄せては帰る波のようにこのまま帰るつもりはございません〕
あまりにひどい話です」
と申し上げると、
「本当に畏れ多いことです。
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる
〔和歌の浦に浮かぶ玉藻が打ち寄せる波に漂うように、光る君様の本心も分からないままそのお言葉に従うというのは心許ないことです〕
強引な気がいたします」
と申し上げる様子が少し物慣れた感じなのでこれ以上責めるのはおやめになりました。
「なぞ越えざらん」
と口ずさみなさるのが、年若い女房たちの心には深く染み入るのでした。
紫の君は、亡くなった尼君を恋い慕って、突っ伏して泣いていらっしゃったのですが、遊び相手になっていた子が、
「直衣を着た人がいらっしゃっていますわ。父宮様がお越しになったみたいです」
と申し上げると、紫の君は起き上がりなさって、
「少納言、直衣を着ていらっしゃる方というのはどちらに?父宮がいらしているのですか?」
と言いながら少納言に近寄ってくる御声は非常にかわいらしくございます。[30]
「父宮ではありませんが、あなたのことを大事に思っている人ですよ。こちらへどうぞ」
と光る君がおっしゃると、誰であるのかお分かりになった紫の君は、ご自身の発言を気まずくお思いになって少納言の乳母に近寄り、
「一緒に来て。眠たいわ」
とおっしゃるので、
「今更どうして私を避けようとなさるのでしょう。私の膝でお休みなさい。さあ、こちらへ」
とおっしゃると、
「申し上げた通りでございましょう。こんなに世慣れないお年頃でして」
といって紫の君の背を押してやると、あっさりと光る君の近くにお座りになりました。几帳の下から手を伸ばすと、しなやかなお着物につややかな髪の毛が豊かにかかっているのが手探りに感じられて、非常にかわいらしく感じられました。光る君が手をお取りになると、親しくもない男の人にそのようにされるのが恐ろしくて、
「寝ると言いましたのに・・・」
と、御手を振り払って奥の部屋へお入りになったのですが、光る君も後に続いて滑り込んで、
「今は私こそがあなたを一番に思っている人なのですよ。そんなに遠ざけないでください」
とおっしゃいました。少納言の乳母は、
「ああ、まずいことになったわ。何てことかしら。何を話しかけてもまったく張り合いがないでしょうに」
といって苦しそうなので、
「いくら私でもこのように幼い子をどうこうしようとは思っていないよ。あなたは私の志の深さが比類ないのだということを、しっかりと見届けてください」
霰が激しく降ってきて、荒涼とした寒々しい夜でした。[31]
「どうしてこんなに人も少なく心細い暮らしをしていらっしゃるのだろう」
とお泣きになって、とても見捨てられるものではないので、
「御格子を下ろしなさい。恐ろしげな夜だから。今夜は私が見張りとして控えることにしましょう。女房たちも近くに来なさい」
と、非常に馴れ馴れしく御帳台の中へお入りになるので、
「こんなことって・・・」
「思っても見なかったことだわ」
と、女房たちはみな呆然としておりました。少納言の乳母も不安で仕方ないのですが、騒ぎたてるべきではないと思って、ただ嘆くばかりでした。紫の君は非常に恐ろしくて、どうなるのかしら、と震えて、たいそう美しい肌には鳥肌が立ち、薄ら寒いものを感じていらっしゃいます。愛しくお思いになった光る君は、紫の君に単衣のお着物をお掛けになると、我ながらさすがに普通ではないとお思いになりつつも、しみじみとお話しかけなさって、
「私の邸にいらっしゃいよ。素敵な絵もたくさんあるし、雛遊びもできますよ」
と、女の子が気に入りそうなことをおっしゃって、とても親しみやすい雰囲気だったので、幼い心地に少しは安心したのですが、そうはいってもさすがに気味悪さもあって、眠ることができずに身じろぎをしながら横になっていらっしゃいます。
一晩中、風が吹き荒れていたので、
「本当に、こうして光る君様がお出でくださらなかったらどんなに心細かったでしょうか」
「姫君がもう少し大人でいらっしゃれば・・・」
とひそひそ話し合っておりました。少納言の乳母は、心配なので紫の君のすぐ近くに控えています。
風は少しおさまったのでですが、こうして夜深くにお帰りになるというのは、いかにも訳ありという感じがいたします。
「かわいそうだと思っていたこの人だが、こうしてお近づきした今となっては、もはや片時も離さずにそばに置いておかなければ気が済まない。私がいつもぼんやり暮らしている邸にこの人をお連れしよう。これほどの人が、このような所にいて良いわけがない。恐がりもしなかったことでもあるし」
「父宮様もお迎えにあがるようなことをおっしゃっていましたが。尼君の四十九日が過ぎてからかと思っております」
「頼もしい人ではあるが、これまで長らく別々に暮らしていらっしゃったのだから、親しさは私と同じようなものだろう。こんなに幼いときから見申し上げることになるが、愛情の深さは父宮にもきっとまさるだろう」
といって紫の君を優しく撫でつつ、後ろ髪を引かれながら邸をでてお帰りになりました。[32]
霧が濃く立ち籠めている空の風情も並々ではなく、霜も白くおりている景色は、本当の恋であればきっと風情を感じるに違いないと思うと、少し物足りない気がしていらっしゃいました。帰りがけ、厳重に人目を忍んでお通いになる女の家があったのを思い出しなさって、従者に門を叩かせなさったのですが、誰も気づかないようでした。仕方がないので、良い声を持つ従者に歌を詠み上げさせなさいます。
朝ぼらけ霧り立つ空のまよひにも行き過ぎがたき妹が門かな
〔空が少し明るくなる中、霧が立ちこめる空に迷ってしまいそうなのにつけても、このまま通り過ぎて行くことができそうにないあなたの家の門であることです〕
二回ほど詠ませたところ、上品そうな次女が出てきて、
立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草の戸ざしにさはりしもせじ
〔霧が覆って素通りできずに立ち止まっているならば、人目に邪魔されることもないのですから草が覆う戸を突破して入ることなど簡単でしょう。まあ入る気がないのだとは思いますが〕
と読み掛けてまた中に入ってしまいました。その後は誰も出てこないので、そのまま帰るのも情けない気はしましたが、明けてゆく空に気兼ねして二条院へとお戻りになりました。
かわいかった紫の君の面影が恋しくて一人でにやにやしながら横になっていらっしゃいます。日が高く昇ってからお起きになると、紫の君にお手紙をおやりになるのですが、書くべき言葉も普通ではないので、考え考えして筆を置きつつ、気の向くままお書きになり、手紙の他に素敵な絵なども併せてお贈りになりました。
この日、紫の君の家にはちょうど父宮がお見えになっておりました。以前にもましてひどく荒れており、古びた広い邸内に人少なでとても寂しいのを見渡しなさって、
「このような所でどうして幼い姫が少しの間でも過ごしておられようか。やはり私の屋敷にお移ししよう。なに、窮屈な所ではないよ。乳母にもちゃんと控えの部屋を与えよう。姫と同じような年頃の子がいるから一緒に遊べるし、とても良いだろう」
などとおっしゃって、紫の君を近くにお呼び寄せ申し上げなさったところ、光る君のたいそう優雅な移り香が残っていたので、
「素晴らしい匂いだ。お着物はとてもくたびれているけれど」
と心苦しそうでいらっしゃいました。[33]
「この数年、よく年老いて重篤な尼君に寄り添って生活していらっしゃったものよ。私の邸に移って暮らしなさいと言ったのですが、姫は不思議と疎んじなさって、私の妻も気を置くようだったので、このような時にお引き取りするというのも心苦しくて」
などとおっしゃると、少納言の乳母は、
「いえいえ。心細くてもしばらくこのままお暮らしになることでしょう。もう少し大人におなりになってからお移りになるのが良いかと存じます。昼も夜も亡き尼君のことを恋い慕っていて、ほとんどお食事も召し上がりません」
とお答え申し上げました。確かに酷くやつれていらっしゃるのですが、とても上品でかわいらしく、それはそれでかえって素晴らしくお見えになるのでした。
「どうしてそんな風にお思いになるのでしょう。亡くなってしまった人のことは仕方のないことです。父親の私がいるのですから」
などとお話し申し上げなさると、日が暮れたのでお帰りになろうとするのを、紫の君は心細く思ってお泣きになるので、父宮もつられてお泣きになり、
「そんなに思い詰めてはいけませんよ。すぐに私の邸にお迎えしますからね」
などと、どうにかなだめてお帰りになるのでした。
紫の君は残された寂しさを紛らわすことができずに泣いていらっしゃいます。これから先、自分がどうなっていくのかなどお分かりにはならず、ただ長い間、ずっと近くにいた尼君がお亡くなりになってしまったことが非常に悲しくて、幼いながらも胸がふさがって、いつものようにお遊びにならず、それでも昼間はその悲しみをどうにか紛らわしなさったのですが、夕暮れになるとたいそう気が滅入りなさって、どうしてこのまま暮らしていけようかと、乳母も一緒になって泣いておりました。[34]
光る君からは惟光を向かわせて伝言を託しなさいました。
「参上しようと思ったのですが、内裏からお呼びがあったので。かわいそうな姿を拝見して以来、心が落ち着きません」
この伝言を聞いた少納言の乳母や女房たちは、
「正気とは思えないわ。例のお話が冗談にしても、あれほど強引に迫っておきながら、さっそく代理人を寄こすなんて」
「父宮様がお聞きになったら、私たちが不手際を責められるでしょうね」
「姫も、光る君のことは決して父宮様にお話しになってはいけませんよ」
などと言うのですが、情けないことに紫の君の幼さでは何もお分かりになっていないのでした。少納言の乳母は惟光にしみじみとしたお話をして、
「今後、しかるべき因縁から逃れられないような出来事が起こるのでしょう。ただ、今はまったく似つかわしくないと見申し上げていて、光る君が信じられないことをおっしゃるのも、どういうおつもりでいらっしゃるのかと、私どもは心が乱れております。今日も父宮がいらっしゃって、『しっかりと姫にお仕えせよ。手抜かりのないように』とおっしゃったのもあって、光る君の好色な御ふるまいも、以前より気が重くございます」
などと言いはしたのですが、わけあり顔だと思われては困るので、あまり深刻には話しませんでした。
実は、惟光もどういう関係にあるのかよく分からずにいたのです。二条院に戻って、様子を報告し申し上げると、光る君もしみじみと会いたいお気持ちになるのですが、お通いになるのもさすがに思慮分別がないように思われて、
「このことが漏れて、軽率で不健全だと噂になるのもまずい」などと気が引けるので、とにかく迎え取ってしまおうとお思いになりました。お手紙は何通もお出しになり、日が暮れると惟光を向かわせます。
「支障があって自ら参上できないのを、いい加減な人だとお思いでしょうか」
などという言づてに対して、
「父宮様が、明日お迎えをくださると急におっしゃったので、慌ただしいところです。長年過ごしたこの荒れた邸を離れるのも、何だか寂しくて、女房たちも心が乱れておりまして」
と言葉少なに言うと、ほとんど応対もせず、忙しく縫い物などをしている様子がはっきり窺えたので、帰ることにしました。[35]
光る君は左大臣邸にいらっしゃいましたが、例によってご内室はすぐに会おうとはなさりません。面倒にお思いになった光る君は和琴を掻き鳴らして
「常陸には田をこそ作れ」
という歌を、たいそう優美な声で気の向くままに歌っていらっしゃいました。
そこへ惟光が参上したので、呼び寄せて様子をお尋ねになりました。惟光が報告を申し上げると、光る君は残念にお思いなさり、
「父宮の所に移ってしまった後にわざわざこちらが迎え取りに行くのも具合が悪いだろう。幼女を盗み出した、と非難されるに決まっている。父宮が引き取る前に、しばらく乳母や女房たちを口止めして私の邸に連れてきてしまおう」とお思いになって、
「明日の夜明け前に行くぞ。すぐに出られるように車の支度をして、随身も一人か二人命じておけ」
とおっしゃると、惟光はその命を受けて立ちました。
「どうしようか。好色だという噂になりそうな気がする。せめて紫の君がもう少し物事がわかったうえで、二人は情が通じていると人に推しはかられるのであれば、世の中でよくあることだ。しかし、もし父宮が私の所にいるのを尋ね当てたら、気まずいことになるだろうな」と思い乱れなさるのですが、といって、今を逃しては残念なことになるに違いないので、まだ夜深くに左大臣邸を出発なさいます。
ご内室は、相変わらず渋っており、気を許さずにいらっしゃいました。
「二条院にどうしても顔を出さなければならない用事があるのを、思い出しまして。すぐに戻って参りましょう」
と言ってお出かけになるので、側仕えの女房たちも知らないのでした。
ご自身のお部屋で御直衣などはお召しになり、惟光だけを馬に乗せてお出かけになりました。[36]
門を叩かせなさると、よく分かっていない者が開けたので、そのまま静かに御車を引き入れさせて、惟光が妻戸を鳴らして咳払いをすると、少納言の乳母が聞きつけて出てきました。
「光る君がお出でになりました」
と惟光が言うと、
「姫はお休みになってしまいました。どうしてこんな夜更けにお見えになったのでしょう」
と、どこか別の女性のもとを訪れるついでの訪問とでも思っているように言いました。
「父宮の所へお移りになると聞いたので、その前に申し上げておきたいことがあって参りました」
光る君がおっしゃいました。
「何でしょう。しかし、ちゃんとしたお答えを申し上げなさることはできないでしょう」
と言って少納言の乳母は笑っておりました。しかし光る君が部屋に入って来なさったので、
「油断して、見るにたえない年配の女房たちが寝ておりますので」
と慌てて申し上げました。
「まだお目覚めになっていないだろうな。どれ、私が起こしてさしあげよう。このように風情ある朝霧を知らずに寝ていてよいものか」
といって御寝所にお入りになるので、お待ちください、と申し上げる暇もございませんでした。
ぐっすりと眠っている紫の君を抱きかかえて起こしなさると、
「宮がお迎えに参りましたよ」
と、おっしゃりながらまだぼんやりしている紫の君の御髪を撫でて整えなさり、
「さあ、いらっしゃい。私は父宮の御使いで参上したのですよ」
とおっしゃると、父宮ではなかったのだと知った紫の君が呆然として恐ろしく思っているので、
「そんなに怯えないでください。私も父宮と同じ人間なのですから」
と言ってそのまま出て行きなさるので、困惑した大輔や少納言の乳母は、
「これはいったいどういうことですか」
と申し上げるのでした。[37]
「ここにはいつも伺うことは出来ないのが心配だから、私の安心できる所にお移ししようと申し上げたのに、嘆かわしいことに父宮の所にお移りになるとのことなので、そうなれば今以上に手紙のやりとりさえも難しくなるでしょうから。誰か一人、お供として私と一緒に参上しなさい」
とおっしゃるので、少納言の乳母は狼狽して、
「今日はとりわけ不都合でございます。父宮様がお出でになったら私は何と申し上げたらよいのでしょう。いつか、しかるべきご関係になる運命でしたら、そのようになる日もいつかきっと来ることでしょう。ただ、今日のところはとても思ってもみなかったことですので、お仕えせよと言われましても困ることでしょう」
と申し上げると、
「よし、では後から誰か参上すればよい」
と言って御車を寄せさせなさると、女房たちは、これはいったいどういうことかしら、と困惑しておりました。
紫の君も泣いていらっしゃいます。少納言の乳母は最早お引き留めすることはできないと悟り、昨夜に縫ったお召し物を持ち、自身も良い着物に着替えて御車に同乗しました。
二条の院は近いので、まだ明るくならないうちにご到着なさり、西の対に御車を寄せて下りなさると、紫の君をさっと抱いて下ろして差し上げなさいました。少納言の乳母が、
「まだ夢のような気がいたします。これからどうすれば良いのでしょう・・・」
といって途方に暮れているので、
「それはあなた次第でしょう。紫の君はもうお連れしてしまったのだから。帰るというなら送ってやろう」
とおっしゃるので、どうしようもなくて御車を下りるしかありませんでした。[38]
少納言の乳母は突然のことに呆然として、落ち着かないようです。
「父宮様は何とおっしゃるだろうか。姫はこれからどうなってしまわれるのだろうか。母上や尼君に先立たれてしまったのがとてもいたわしい」と思うと涙が止まらないのですが、泣いてばかりいるのもさすがに縁起が悪いので我慢しておりました。
二条院の西の対は、今のところはどなたもお住みでないので、御帳台などもありませんでした。光る君は惟光をお呼びになり、御帳台や屏風などを次々にしつらえさせなさいます。御几帳の垂れ布を下ろして、御座所は少し整えるだけのことだったので、光る君は東の対に宿直装束などを取りに人をやるとお休みになりました。
紫の君はとても恐がって、どうするおつもりなのかしら、と震えつつ、さすがに声を立てて泣くこともおできにならず、
「少納言と一緒に寝たいわ」
とおっしゃるその声はとても幼くございました。
「もうこれからは乳母と一緒に寝ることはなくなるのですよ」
と教えなさると、非常に寂しくなって突っ伏して泣いていらっしゃいました。乳母は横になることもできずに呆然としたまま起きております。
夜が明けてきたので、邸内をよく見渡してみると、お邸の造りはまったく言いようもないほど素晴らしく、庭の砂さえも宝石のように輝いて見える気がして、何となく気恥ずかしいように思われるほどでしたが、この西の対には女房などもおりませんでした。あまり親しくない客人が参上したときに使われる部屋だったので、番人の男たちが御簾の外におりました。
光る君が女の人を連れていらっしゃったことを聞いたこの家に仕える女たちは、
「誰かしら。一緒に暮らすというのだから並大抵の方ではないはずだわ」
とひそひそ噂をしております。
御手水やお粥などが届けられました。光る君は日が高くなってから起きなさり、
「お世話をする女房がいなくて具合が悪いだろうから、ふさわしいのを夕暮れにお迎えなさると良いでしょう」
とおっしゃって、東の対に人をやって子どもをお呼び寄せになりました。
「小さい子はみなこちらに参上するように」
とご命令があったので、たいそうかわいらしい子が四人参上しました。
紫の君はお着物を引きかぶって臥していらっしゃるので、起こして、
「そんな風にして私を困らせてはいけませんよ。いい加減な男ならこのように大切にすることはありません。女は何といっても心根が穏やかで優しいのが一番です」
などとさっそく教え込もうとしなさるのでした。[39]
紫の君のお顔立ちは離れて見たときよりも、たいそう美しくございました。光る君は親しげに語りつつ、面白い絵や遊び道具を取り寄せ、紫の君が興味を引きそうなことをなさいます。すると、紫の君も次第に起き上がってきて、着慣れた鈍色のお召し物を着て、無邪気に笑っていらっしゃいました。そのかわいらしさに、光る君も自然と笑みがこぼれつつ、見つめていらっしゃいます。
やがて光る君が東の対にお渡りになったので、部屋の外に出て庭の木立や池などを眺めなさると、霜枯れした木草などはまるで描かれた絵のような風情がありました。それに、見たこともない四位、五位の高貴な人たちがひっきりなしに出入りしているのを見て、
「本当に素敵な所だなあ」とお思いになるのでした。屏風などの面白い絵を見て気を紛らわしていらっしゃるのも、あどけないことです。
光る君は、二、三日の間内裏へも参上なさらず、紫の君をなつかせようと親しくお話をしていらっしゃいました。たいそう風情のあるものをかき集めなさいました。
「武蔵野といへばかこたれぬ」
と、光る君が紫の紙にお書きになった墨つきの格別なのを手に取ってご覧になっています。光る君が少し小さな声で、
「ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを」
〔共寝はまだしていないが、しみじみ愛しく思われることだ。草の生い茂る武蔵野に置く露を分けて行くことができないように、関係を進めることができない藤壺の宮様と血縁であるこの人が〕
と言い、
「さあ、あなたも何かお書きなさい」
と言うと、
「まだ上手に書けませんもの」
と言って見上げなさるお顔が純真でかわいらしいので、光る君はにっこりと微笑みなさり、
「そうやって書かないのがいけないんですよ。私が教えてあげようね」
とおっしゃったところ、ちょっと横を向いて筆を取り、お書きになりました。その幼い様子がかわいく思われてならないのを、光る君も我ながら不思議に思っていらっしゃいます。
「書き間違えちゃったわ」
と恥ずかしがってお隠しになるのを、無理に取り上げてご覧になると、
「かこつべき故を知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん」
〔武蔵野の草と私をどのようにかこつけて嘆いているのかが分からないので、もやもやすることです。私はいったいどのような草のゆかりなのでしょうか〕
と、とても幼いながらも女性らしく柔らかな筆の運びに将来性が感じられました。亡くなった尼君の筆跡に似ていました。今風の手本を習得させたら素晴らしく上達なさるだろう、とご覧になりました。光る君は、ひな人形などもわざわざそれ用の家を作り続けて一緒に遊びつつ、藤壺の宮様への思いを紛らわしていらっしゃいました。[40]
さて、六条の家に残った女房たちですが、父である兵部郷の宮様がお見えになって紫の君のことをお尋ねになると、何とも申し上げようがなくて皆困っておりました。しばらくは誰にも言ってはならぬと、光る君がおっしゃり、少納言の乳母もそう思っていたことなので、固く口止めされていたのです。
ただ、「どこへか、少納言の乳母が連れ出してお隠ししてしまいました」とばかり申し上げるので、兵部郷の宮様も情けなくお思いになって、
「亡き尼君も、姫君が私の邸に移ることを非常に嫌がっていらっしゃったから、乳母は出しゃばった真似をして、大人しく私に引き渡すことを、嫌だとは言わずにおきながら、こんな風なことをしでかして、落ちぶれさせることになってしまうのか」
とおっしゃって、泣く泣くお帰りになったのでした。
「もし、何か分かったら知らせよ」
とおっしゃるのも、女房たちには厄介なことに思われました。
兵部郷の宮様は僧都にもお尋ねなさってみたのですが、何の手がかりも掴めず、紫の君の、もったいないほどに素晴らしかった顔立ちなどを恋しく悲しく思いだしていらっしゃいました。
兵部郷の宮様の御正室も、以前は確かに紫の君の母親を憎んでいたのですが、実は、今やそんな気持ちも消え失せて、自分で育てたいとお思いになっていたので、そのようにことが運ばなかったことを残念なことだと思っていらっしゃいました。
次第に紫の君の所に女房たちが集まってきました。遊び相手の子どもたちは、紫の君が普通と違ってとても華やかなお姿なので、一緒に遊べることを喜んでいました。紫の君は、光る君がお出かけになってもの寂しい夕暮れ時だけは、亡き尼君のことを恋しく思ってお泣きになりましたが、父宮のことを思い出しなさることはございません。もとより、父宮が近くにいないことに馴れていらっしゃったので、今ではすっかり養父のような光る君に親しくなついていらっしゃいました。
光る君がどこかからお帰りになれば、まっさきに出迎えて、しみじみとお話をし、光る君の懐に飛び込んで少しも恥ずかしがったりすることもなく、非常にかわいらしいのでした。女が利口ぶり、何か思うことがあって何やかんやと面倒な関係になってしまうと、これでは私の心も今までと違ってこの女が厭わしく思えてくるのではなかろうか、と思って自然と気がねしてしまい、そうなれば女も男を恨みがちになって、予想外の結末を迎えたりするものです。
それに対して、この紫の君はとてもかわいらしい遊び相手でした。
「本当の娘であれば、これくらいの年になってしまうと、こんな風に隔てなく心を許して一緒に寝たり起きたりすることはできないが、これは普通にはない関係だな」
と思っていらっしゃるようでした。[41]